朝倉英次

朝倉英次(あさくらえいじ:1911~1973)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤周吾

弟子:佐藤守正/小笠原義雄

〔人物〕 明治44年1月1日宮城県刈田郡遠刈田新地の木地師佐藤周吾・イシの二男に生まれる。佐藤静助は長兄にあたる。 大正12年遠刈田高等小学校高等科を2年で中退し、父周吾が働く北岡木工所に入って木地修業を始めた。北岡では最年少の佐藤正吉佐藤英次が専ら玩具類を挽いた。主な玩具製品は、こけし、達磨、独楽、茶道具、八百屋籠などであった。 昭和6年現役兵となって満州に渡り、同7年に除隊となって遠刈田に戻り、再び北岡木工所の職人となった。昭和8年木地業から離れ、上京して旭硝子で働いた。昭和12年応召し、支那戦線に加わったが昭和16年2月に除隊し、帰郷した。昭和18年33歳の時、母イシの姪朝倉きぬと結婚婿養子となって、朝倉姓に変わった。昭和20年三度目の応召になり、麻布三連隊に入隊したが間もなく終戦となった。昭和21年2月に遠刈田に戻り、北岡工場で再び働き始めた。 戦後の北岡木工所時代には、佐藤守正、高橋広平、佐藤正男に木地の指導を行った。昭和22年仙台に移転、二十人町に作業所を開設して木地業を行い、仙台民芸社の新型こけしの下木地などを製作した。この作業所では、佐藤正男や佐藤一夫が職人として働いた。昭和30年頃より、伝統こけしの愛好家の収集活動も活発になったので、旧型の製作も開始した。昭和35年頃には小笠原義雄がこの作業所で職人として働いた。 昭和41年頃に病を得て、こけし製作を一時休んだが、その頃より妻きぬがこけしの彩色を始めた。英次も体調回復後は、少量ながらこけしの製作を続けた。 昭和48年7月11日没、行年63歳。


前列 左より 朝倉英次・なつ・きぬ 後列 公明・光洋・秀之・理恵子

朝倉英次 昭和44年
朝倉英次 昭和44年

〔作品〕 大正12年13歳よりこけしを製作しており、年齢の割には早くからこけし界に作者として知られていた。〈こけし異報〉〈木形子〉等で作品も紹介されている。戦前は「佐藤英次」の作者名で知られていた。
昭和8年には上京し、木地からは離れるので、戦前の英次作は大正末期から昭和8年ごろまでに限られる。 この時代の北岡木工所におけるこけし製作は主に年少の英次と正吉が行っていたので、両者のこけしはよく似ていて混同されることがある。
下に深沢コレクションの大正末期、加藤文成旧蔵、鈴木康郎蔵の昭和初期の作例を紹介する。 北岡木工所という規格化された生産体制ではあったが、周治郎系列の甘美な情趣や、安定したオーソドックスな作風を維持している。

〔20.3cm、12.6cm(大正末期)(深沢コレクション)〕
〔20.3cm、12.6cm(大正末期)(深沢コレクション)〕

〔19.5cm(昭和初期)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション
〔19.5cm(昭和初期)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション

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〔右より 20.2cm、22.0cm(昭和初期)(鈴木康郎)〕

戦後は昭和30年頃より、こけし製作を再開している。両眉、瞼のややつり上がった鋭角的な表情のこけしを作った。昭和30年代後半には静助型。直治型等の古作の復元等も行ったが、大正期の本人作の復元はさすがによく雰囲気を再現出来ていた。

〔19.5cm(昭和37年)(橋本正明)〕 本人の大正期の作を復元
〔19.5cm(昭和37年)(橋本正明)〕
本人の大正期の作を復元

〔右より 30.6cm(昭和38年)本人型、13.5cm(昭和39年)静助型 (橋本正明)〕
〔右より 30.6cm(昭和38年)本人型、13.5cm(昭和39年)静助型 (橋本正明)〕

系統〕 遠刈田系周治郎系列  朝倉英次の長男秀之が昭和41年頃、一時描彩をしたことがある。また英次の死後、次男光洋、三男公明が佐藤照雄に木地を習ってこけしの製作を行った。

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