志田菊麻呂(しだきくまろ:1892~1984)
系統:蔵王高湯系
師匠:志田五郎八/岡崎長次郎
弟子:志田菊宏
〔人物〕 明治25年6月6日山形県西村山郡大井沢村字中村の農業志田頼雲の三男に生まれる。明治41年18歳より志田五郎八(戸籍名:善見)について木地を学んだ。大正期に入って、蔵王高湯岡崎長次郎のもとに行ってさらに木地を修業した。大正7年2月山形県知事添田敬一郎より山形県木工修得証書を受領した。大正9年には間沢駅(かつてあった山形交通三山線の終着駅)近くの佐藤木工所で4カ月ほど働いたこともある。製品は主に当時需要が旺盛だった輸出用の薄荷入れであり、さらに椀や盆も挽いたが、その合間にこけしも作った。戦後、昭和34年小野洸によって、大井沢にこけし作者がいたことが紹介され、さらに我孫子春悦によって作者としての菊麻呂が見いだされて、それ以降依頼されてこけしを再び作るようになった。昭和54年には自宅に動力ロクロ2台を設置、孫の菊宏もやがてこけしを作るようになった。90代までこけしを作っており、亡くなる前年にも新品8寸が仙台屋の店先に並んでいたという。昭和59年11月28日93歳で没した。
〔作品〕 菊麻呂こけしの発見は劇的なドラマであった。下記は発見者我孫子春悦による〈こけし手帖・49〉への報告である。
「その暗い東北の冬もようやく終わりを告げるころ、私の同僚から突然電話をもらった。『いま、白岩という集落の東海林某なる家に往診に行ったところ(白岩は昨年秋、民芸・玩具・こけし三会合同旅行で見学に訪ずれた家並の密集した昔の宿場)珍らしいこけしを焚いていたのでストップをかけた。明日持参させるから価値のあるものかわからないが、本人は四十年くらい前、母が大井沢から運んで売っていたものだ』との内容であった。それが本当なら、これはたいした掘り出し物だと、こおどりして待った。」「私は、そのこけしを見た瞬間、正直なところ、とまどってしまった。途方にくれたという表現がぴったりするかもしれない。 全体から受ける感じは、まことに素朴である。かつて、大井沢こけしとして紹介した志田栄のこけしに比較するなら似ても似つかないし、もちろん、けんらん豪華にはほど遠く、さりとて、他の伝続こけしに見られがちな窮屈さもなく、土地から受ける貧しい忙しさも感じられない。むしろ、ひそかに山合いに咲いた小百合のごとく、静かに埋もれた遠いとおい昔の土の香りが、寂々として陸の孤島への郷愁を誘ってくれるこけしである。」
白岩の脊商人日の出屋の屋根裏から出てきて焼かれる寸前だった6寸のこけし10本が救出された物語である。この一群のこけしは〈山形のこけし〉の原色版でも紹介されている。日の出屋の当主の母が志田五郎八の義弟の妹にあたり、当主は町の産物を大井沢に担いで運んでいた脊商人であったから、大井沢の帰りには木地製品や産物を運んで持ち帰っていたと思われる。我孫子春悦はこのこけしを大井沢に持って行って、作者が志田菊麻呂であることを突き止めた。
戦後復活してからの志田菊麻呂は、五郎八風の鳴子型木地のものが多かった。
我孫子春悦発見のもの。10本のうち2本は大井沢がこけし産地であったことを突き止めた小野洸に敬意を表して送られている。
〔30.3cm(昭和55年)、25.1cm(昭和51年)(高井佐寿)〕
戦後再開後に作ったこけしは志田五郎八譲りの鳴子風の形態に菊模様を描いていた、この写真の右のように重ね菊でも鳴子風に変わっている。
〔伝統〕 我孫子春悦発見の大正期10本は万屋風の重ね菊の胴模様、下瞼のある面描等蔵王高湯系のこけしである。戦後に作ったこけしは鳴子系の形態だった。本来、大井沢には鳴子からこけしの伝承があり、菊麻呂が蔵王高湯で学んだことで、蔵王高湯系の影響が加わっている。
後継者には孫の志田菊宏、菊宏の娘の楓がいる。