佐藤広子(さとうひろこ:1961~2023)
系統:木地山系
師匠:佐藤秀一
弟子:
〔人物〕昭和36年5月5日、秋田県川連町大舘の木地業佐藤秀一、カネの3人兄弟(女・男・女)の末子に生まれた。祖父の兼一は戦前よりこけしを作った事で知られている。兼一の母ヨシは初右衛門本家の小椋養治の長女で泰一郎とは兄妹である。
広子は子供の頃より祖父、兼一と父、秀一のこけし製作に興味を持ち、工房での木地挽きと夜なべ仕事の描彩を見て育った。材料の皮むき作業の手伝いは楽しい思い出と語っている。病気がちだった兼一から川連の昔話を聞くのが好きだったという。小学校中学年の頃より秀一から泰一郎型、治一型の描彩を手取り教えて貰った。稲川町立川連小学校(令和4年4月に湯沢市立稲川小学校に統合され閉校)在学中の昭和47年(小学5年生、11才)から高校を卒業する昭和54年3月、18才まで描彩をして、訪問してくる蒐集家に渡った。描彩は全て秀一木地である。100本以上は描いたとの事であるが手元には殆ど残っていない。高校生になると部活動が忙しく描彩は減少したらしい。高校卒業後は東京の企業に就職して専門学校にも通い洋裁の勉強をした。
こけしは主に泰一郎型を描いたが、樋渡治一型も少数描いた。秀一が古関久太郎漆器店で椀挽きをしていた頃の同僚、樋渡治夫(樋渡治一の息子)より治一型の後継者がいないので懇願され製作に至った。現在は多くの木地山系の工人が治一型を手掛けているが、広子はそのような経緯から昭和47年から治一型も描いている。高校卒業後は平成12年10月に次男の親子教室の折に1本ずつ描いた。子供二人が社会人となり手を離れたので令和4年8月末に久々に3本こけしを描いた。家に残る秀一の木地に描いたが、ブランクを全く感じさせない、木地屋の娘ここにありと云う作品である。その後10月にも秀一木地に10数本描彩し治一型も描いた。
令和4年12月の大阪こけし教室で僅かに頒布されるが、秀一木地の在庫が無くなったので今後は描けないとの事である。秀一以外の木地にも描いて欲しいものである。尚、兄の明(あきら・昭和35年生れ)は町内の椀挽き木地師から木地修業したが転業して現在は違う職に就いている。今回の復活作の蝋仕上は轆轤を使い明が行った。現在も明が秀一の家を守っている。木地山系の中でも古い流れを汲む中心的な系列の一家だけにこれをきっかけに描彩だけでも長く続けて欲しいと期待され、令和5年には秀一以外の工人の木地にも描彩を始めたが、令和5年5月24日大動脈解離のため逝去した。行年63歳。
〔作品〕
〔右より 18.6㎝(昭和47年)(中根巌)箕輪新一旧蔵、30.7㎝(昭和54年11月)、15.2㎝(令和4年8月)、18.4㎝(令和4年10月)、18.6㎝(令和4年10月)(中根巌)〕
〔全て 9㎝ 前後(令和4年10月)(中根巌 )木地は全て佐藤秀一〕
〔全て21.0㎝(令和5年5月)(中根巌 )右より 武井武雄手泰一郎型、こけし人形図集の兼一型、秀一の小安型〕秀一以外の木地に描彩した作品
〔伝統〕 木地山系