竹田齋夫

竹田齋夫(たけだときお:1941~)

系統:蔵王高湯系

師匠:竹田俊雄/木村祐助

弟子:

〔人物〕 昭和16年8月4日、山形県米沢市中央の竹田巳代吉、たつの七人兄弟の五男として生まれた。父の巳代吉は雪室に雪を保存する雪屋を営み、料亭や氷屋等に雪氷を卸していた。齋夫は、昭和33年米沢商業高校中退後に長兄俊雄が工場長をしていた米沢こけし工場に入り木地挽きに就いた。米沢こけし工場は木地挽き工人10人、描き手の婦人が30人在籍した大規模な会社であった。俊雄は、竹田光信の名で日本農村工芸作家協会員の創作こけし作家として活躍した。齋夫は俊雄について縦挽き轆轤による木地挽き技術を修得した。兄の俊雄は海軍の木工品製作部出身だけあり、優れた技能を有していた。特に材料の調達、乾燥、道具作りは大変厳しく指導を受けた。10年後の昭和44年1月に東寺町で独立、同年5月に齋藤カツ子と結婚した。昭和47年に花沢町に工場を移転した。西川町間沢や新庄市方面から大量の材料を購入して、各種木地物、新型こけし、創作こけしを製作した。さらに、日本けん玉協会の認定工場となり、競技用のけん玉を、20数年間にわたり年間15万個納め続けた。昭和50年頃から伝統こけし工人と材料の供給を通じて付き合いが始まった。中でも石山三四郎、和夫、有路静夫、会田栄治とは懇意な間柄となった。木村祐助とは昭和52年に問屋の紹介で知り合い、材料とこけし木地の提供を続けた。その縁で昭和63年より祐助より描彩の手解きを受け、仕事の合間に描彩の練習を続けた。平成2年4月に祐助より弟子として許可され覚書も受領した。練習を重ねて、平成5年4月に師匠の了承のもとに第35回「全日本こけしコンクール」に非売品で出品した。その後、山形の舟山達が木村祐助の初期作6寸を持参して写しを依頼し、その作品10本が、平成5年7月の名古屋こけし会例会で初頒布された。木地の切れは良く、描彩も巧みであった。残念ながら名古屋頒布後は木地業が多忙なために上山こけしは作られる事はなかった。その後も木地挽物と新型、伝統こけしの木地、材料提供等を続けた。平成19年に火事で工場が全焼した。奮起して工場を再建し、機械類も全て新調し、法隆寺、東大寺に百萬塔香合、五輪塔鋺を納める等、木地師としての活動を続けた。
 平成24年10月に東京で開催された「第67回国際通貨基金(IMF)・世界銀行年次総会」では、その記念品として「三つの起きあがり小法師」を日本政府からゲストに贈られたが、齋夫はその木の起きあがり13000個を作った。これは前年の東日本大震災からの復興と云う事が込められていて、東北の代表的な素材であるケヤキと和紙、鉄を使用して各職人により作られセットにされたものである。
現在もこけし界とは繋がりは深く、白木地、材料供給等で世話になっている工人は多い。令和3年10月に行われた第30回 美轆展の「子持ちセット」の「子」は全て齋夫の製作で、一部の工人の「親」も齋夫の挽いたものがある。
 尚、「全日本こけしコンクール」には初期より出品している。第5回コンクール・第二部(新型こけし)「こだま」小田原商工会議所会頭賞。第10回コンクール・第二部「北国の春」米沢市長賞。第19回コンクール・第三部(創作こけし)「夏の夜空」竹田大介の名前で仙台放送賞等の受賞をしいている。 
80才を超えた後も木地師として現役を続けた。長年轆轤を廻してきた弊害で指先が震えて描彩が出来なくなったという。木地を挽く事には影響はなく、ベテラン工人ならではの多彩なアイディア木地製品を作る。「想いのこけし」は商標登録されている。
現在もこけし工人や各所の絵付けこけし用の木地を年間3000本程挽いている。 
木工業が盛んだった米沢と云う土地が生んだ本格的な木地師で時代を反映して新・旧型こけしも製作した工人であり、また長年に亘り木地と材料提供でこけし界に貢献した人でもある。

竹田齋夫

木地作業中の竹田齋夫

〔作品〕下掲は昭和63年より描彩の手解きを受け、平成2年4月に祐助より弟子として許可を受けた後に製作した木村祐助型。祐助の作風をよくとらえた作品であった。


〔右より、17.6㎝(平成5年6月)(中根巌)木村祐助型・名古屋こけし会187回例会頒布品、24.3㎝(平成5年6月)(中根巌)木村吉太郎型・第35回全日本こけしコンクール出品作〕


〔写真右より 多機能スタンド7.6㎝、7.5㎝(卵立てとフラワーアレンジメント入れとして両側使用できる)、想いのこけし(こけし内のメッセージ紙に書き大切な人に届ける。令和3年に商標登録している)、起きあがり小法師・3.5㎝(ケヤキ材)(中根巌)〕

〔伝統〕 蔵王高湯系

〔参考〕

  • 中根巌:竹田齋夫のこと〈伊勢こけし会だより・169〉(令和4年6月)
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