木地山系、山形小林一家など一部のこけし後頭部に見られる毛束のこと。
つんけを描く工人として知られているのは、中ノ沢岩本善吉、木地山系小椋泰一郎、小椋久四郎、小椋石蔵、土湯系佐久間由吉、山形の小林倉吉、清蔵、栄蔵、作並の平賀謙蔵、鶴岡の柏倉勝郎、川連樋渡治一、横川目の佐々木与始郎、大井澤の志田菊麻呂、喜多方の小椋千代五郎、宮古の坂下権太郎、およびそれらの型を継承した工人たちである。
こけし界でつんけがポピュラーになったのは、深沢要が「こけし追求」に小椋米吉訪問の様子を紹介したことによるところが大きい。
深沢が昭和15年旭川に小椋米吉を訪ねたとき、米吉は「ツンケ(後頭部に残した毛)は必ずつけたものだ」と語り、またその妻女ツメヨ(小椋岩右衛門の孫)は「虫(癇虫、正しくは疳虫)は七つ迄のもので、七つになると落すのです。私達の子供の頃は、男の子も女の子もツンケをつけたものです。ツンケとは頭の後の引込んだところに毛を残したものです。よく大人が、ツンケそらそら…といって、いたずらをしたもので、それがおっかないとて逃げたものです」と語っていたという。
つんけの語源については定説はないが、幼児の後頭部に剃り残した毛髪、「ちりげ」が変化したものという説が有力であろう。
「ちりげ」というのは灸のツボの身柱をいう言葉でもある。身柱は、えりくびの下で、両肩の中央の部分。疳の虫などの子供の病気に灸をすえたツボである。チリゲ元とも言った。大言海では「散毛の義にて、髪の散りて届く處の意か。或いは云う、散気の義、又は塵気の義にて、この点を灸すれば塵気生ぜずとも云う。逆上するをちると云うとぞ。」とある。幼児の疳そのものをチリゲと呼ぶ場合もあった。
おそらく、チリゲという疳の虫による逆上を押さえるために、灸のツボにもあたる場所の毛を剃り残したもので、それをチリゲと呼び、場所によってはツンケと発音したのであろう。また各地では子供が井戸や炉に落ちそうな時に、この毛をつかんで神様が助けてくれるという言い伝えもあった。
こけしの描彩、例えば前髪に付ける水引きなどは御所人形に起源があるといわれている。その流れを東北の土人形も引き継いで、こけしはまたその描法の多くを継承している。そうした雅な人形を写したこけしにはつんけが描かれていない。
つんけは江戸後期から明治末期にかけて庶民の間に行われた習俗で、「こけしが工人の身の回りにいる庶民の童子をイメージしたもの」という認識を持つに至ったこけし工人によってつんけははじめて描かれるようになるのである。