小椋岩右衛門

小椋岩右衛門(おぐらがんえもん:生年不明~1884)

系統:木地山系, 木地業

師匠:小椋信右衛門

弟子:

小椋信右衛門の子。信右衛門一族は文化10年(1827)に近江を出て信州に移り、文政年間に宮城県玉造郡中山平に漂移し、蛭谷系の氏子狩に応じた。岩右衛門は天保七年(1836)の飢饉に追われて羽後に入り、雄勝郡高松村桂沢に木地山を形成した。岩右衛門の二女ナツは小椋泰一郎の母カヤの母にあたる。
岩右衛門は、川連の商人との間で起こった木地屋侮辱事件〈あしなか・109〉の当事者としても知られる。
これは嘉永6年に山の木地師と里人との間の確執が顕在化した事件で、発端は六郎左衛門という木綿売人と岩右衛門との間で木綿一反の間違いから口論になった。その際に売人から「お前たちは氏系図もない使用人同様の者」と侮辱されたことが発端で、岩右衛門は「木地師が受けている御綸旨に対する不敬」として木地師の本山江州小椋谷まで訴え出た。結果として「
訴状により侮辱したものは大いに叱責された」と木地師の間では伝えられているが、実際には特段のお咎めや沙汰は出なかったらしい。どちらの立場が支持されたかというよりは、独特のプライドを持って生活していた山の木地師達と里の人々との間に、時に緊張関係もあったという事例として見るべきであろう。


江州へ提出した訴状

岩右衛門は明治17年に死亡。息子たちは川連の佐藤家へ養子に入り、岩右衛門系は消失した。
岩右衛門がこけしを作ったかは定かではない。
小椋米吉の妻女ツメヨは、岩右衛門の娘ユキヨが川連の農業佐藤七郎右衛門に嫁いで生まれた娘で、岩右衛門の孫にあたるが、こけしの後頭部に描かれるつんけについて次のように語っていた。「虫(癇虫、正しくは疳虫)は七つ迄のもので、七つになると落すのです。私達の子供の頃は、男の子も女の子もつんけをつけたものです。つんけとは頭の後の引込んだところに毛を残したものです。よく大人が、つんけそらそら…といって、いたずらをしたもので、それがおっかないとて逃げたものです。」(深沢要〈こけしの追求〉)


木地山系図 〈こけし辞典〉より

〔参考〕

  • 伊藤雅義:羽後木地山の人たち〈あしなか・109〉(昭和43年8月)山村民族の会
  • 伊藤雅義・江田絹子:川連の木地業と羽後の木地山(昭和42年11月)石倉誠文堂

 

 

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