小椋岩右衛門

小椋岩右衛門(おぐらがんえもん:生年不明~)

系統:木地山系, 木地業

師匠:小椋信右衛門

弟子:

小椋信右衛門の子。信右衛門一族は文化10年(1827)に近江を出て信州に移り、文政年間に宮城県玉造郡中山平に漂移し、蛭谷系の氏子狩に応じた。岩右衛門は天保七年(1836)の飢饉に追われて羽後に入り、雄勝郡高松村桂沢に木地山を形成した。岩右衛門の二女ナツは小椋泰一郎の母カヤの母にあたる。岩右衛門と川連の商人の間で起こった木地屋侮辱事件〈あしなか・109〉は有名。岩右衛門は明治17年に死亡。息子たちは川連の佐藤家へ養子に入り、岩右衛門系は消失した。
岩右衛門がこけしを作ったかは定かではない。
小椋米吉の妻女ツメヨは、岩右衛門の娘ユキヨが佐藤七郎右衛門に嫁いで生まれた娘で、岩右衛門の孫にあたるが、こけしの後頭部に描かれるつんけについて次のように語っていた。「虫(癇虫、正しくは疳虫)は七つ迄のもので、七つになると落すのです。私達の子供の頃は、男の子も女の子もつんけをつけたものです。つんけとは頭の後の引込んだところに毛を残したものです。よく大人が、つんけそらそら…といって、いたずらをしたもので、それがおっかないとて逃げたものです。」

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