佐久間伝六

佐久間伝六(さくまでんろく:1931~)

系統:土湯系

師匠:佐久間太市

弟子:

〔人物〕昭和6年10月21日、福島県伊達郡川俣町日和田の木地業佐久間太市、マスエの六男に生まれた。昭和20年3月川俣国民学校高等部を卒業、同年8月に福島瀬上で終戦を迎えた。その後、父について木地を修業し、川俣織物工場において木管などを約8年ほど挽いた。その後独立し、機料店経営の余暇にこけしを作り、太市名義で販売されたが、木管等の機業地川俣の必需品製作が主な仕事で、こけしは多くは作らなかった。ただ昭和35年ころ、福島こけし会より勧められて粂松型をつくり、この頃より伝六名義のこけしも作るようになった。以後注文に応じて作ったが、昭和43年頃から本業の機料店の仕事が忙しくなり、こけし作りは休止した。

佐久間伝六 昭和35年 撮影:露木昶

佐久間伝六 平成28年

佐久間伝六 平成28年 撮影:庄子勝徳

〔作品〕初期の作は目尻を誇張して下げた表情で、鹿間時夫は「楷書体で硬筆、粂松の情味と隔たること遠い。川俣が機業地でこけし製作の自然的風土でなく、工人側にこけしに対する熱意も夢もない場合、たとえ血縁的に子孫であっても、作るものは新型と大差なく、伝統の衣をかむった一般型であることを証している好例である。」と厳しい評価を与えていた。
一方で庄子勝徳は伝六からの聞き書きをもとに、戦後太市、伝六にこけし製作の依頼が来たころ、粂松はすでになく、そのこけしの伝承もほとんどなかったので、同じ川俣の佐久間虎吉からの影響がかなりあったことを指摘している。
下掲は初期の作、この二本は太市名義で収集家の手に渡ったが、いづれも伝六の作で、後年になって伝六は「太市の作と言われるものの九割以上は自分が作ったものだ」と語っていたという。


〔右より 29.4cm(昭和27年ころ)、23.5cm(昭和29年10月)(庄子勝徳)〕

昭和42年ごろ、高円寺のねじめの依頼で作った粂松型はやや湊屋系列の作風を感じさせるものだった。

〔19.3cm(昭和42年5月)(橋本正明)〕
〔19.3cm(昭和42年5月)(橋本正明)〕ねじめによる頒布

系統〕土湯系湊屋系列

〔参考〕

  • 三土新明会の庄子勝徳講演で示された伝六からの聞き書きには示唆に富む内容が多い。
    ⇒ 川俣だより
  • 庄司勝徳:川俣の佐久間伝六さんを訪ねて〈木でこ・213〉(平成28年11月)
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