明治29年8月25日 、渋沢篤二と敦子夫妻の長男として東京深川に生まれた。祖父は「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一。敬三も第一銀行副頭取を務めた後、日本銀行に移り、昭和19年に第16代の日本銀行総裁となった。
実業界で活躍する一方で、若き日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、港区三田の自邸車庫の屋根裏に、二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集した私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」を開設した。特に漁業史の分野では静岡県内浦の漁業資料を調査し、〈豆州内浦漁民史料〉を刊行して、昭和15年に日本農学賞を受賞している。
多くの民俗学者との親交もあり、岡正雄、宮本常一、今西錦司、江上波夫、中根千枝、梅棹忠夫、網野善彦、伊谷純一郎の研究活動や出版などに際し、経済的な支援も行った。
アチック・ミューゼアムに集めた収蔵品は、昭和14年に日本民族学会付属博物館に移管された。
一方、渋沢敬三蒐集品の一部は昭和26年に東京都品川区に設立されたに文部省史料館(現在の国文学研究資料館)にも収蔵された。
昭和38年10月25日虎ノ門病院にて亡くなった、行年数え年68歳。勲一等瑞宝章を授与された。
この品川区にあった文部省史料館に昭和40年代に佐久間浅之助とされる作が収蔵されていたことは、西田峯吉、橋本正明が確認している。胴の下部に紫のロクロ模様をいれた一本であった。
さらに日本民族学会付属博物館に移管された方の蒐集品は、昭和52年に完成した大阪の国立民族学博物館に収納されることになった。この蒐集品の中に何本かの古作こけしが含まれており、中根巌調査によって二本の伝佐久間浅之助を含む十数本が確認された(下記Gallery参照)。
ここで問題はこの二本の浅之助が文部省史料館にあった浅之助と同一のものかという点である。
確かに文部省史料館の浅之助も胴下部のロクロ線は紫であった。
しかし、昭和52年に国立民族学博物館に入ったものは、昭和14年に日本民族学会付属博物館に収蔵されたものとされているから、昭和40年代に文部省史料館にあったものとは別の浅之助であったかもしれない。それであれば浅之助とされた作は三本あったことになる。
あるいは文部省史料館の収蔵品が昭和47年に現在の国文学研究資料館に改組された時、国文学関係以外のものは日本民族学会付属博物館に移されて、それが大阪の国立民族学博物館に入ったのかもしれない。いずれにしても渋沢敬三は二本ないしは三本の浅之助を所蔵していた。
現在の国立民族学博物館には、渋沢敬三旧蔵の二本の浅之助ほか十数本のこけしが収蔵されていることが確認されている。渋沢敬三自身によるこけしに関する記述等はまだ知られていないので、いかなる興味を持って手に入れていたかは不明である。
〔参考〕
- 渋沢敬三とアチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)
- 渋沢敬三年譜
- 伊勢こけし会だより・91号
- 木人子室:「元文部省史料館」の浅之助
ここでは文部省史料館にあった浅之助と国立民族学博物館に入った浅之助は同一のものとして議論されている