西澤笛畝

西澤笛畝

本名昂一旧姓石川、明治22年1月1日 東京浅草に生まれる。日本画家。初号は廸畝、別号に木槿庵・雙来居・比奈舎を用いた。大正期から昭和期にかけて、人形玩具の収集、研究家として知られる。日本画は荒木寛畝とその養子荒木十畝について学んだ。大正2年人形収集で有名な実業家西澤仙湖の長女勝子と結婚して仙湖の女婿となった。明治、大正期を通じての玩具画集の大冊〈うなゐの友〉が、著者清水晴風の病没によって初編から六編までで中断されているのを引き継ぎ、養父仙湖の遺品の収集玩具を画材にして第七編(大正6年)を刊行。以後第十編(大正13年)までを担当して続刊(芸艸堂版)、全10冊の同書を完成させた。以後人形、郷土玩具界の牽引的な役割を期待されるようになった。
大供会は明治42年5月に第一回が開催されたが、開催場所は西澤仙湖邸であった。笛畝は大正2年に仙湖の女婿となったが、仙湖の交遊から大供会や集古会の会友達ともつながりができた。翌大正3年に岳父仙湖は他界したので、その膨大な人形玩具の収蔵品および研究活動は笛畝が継承することとなった。集古会の会員にもなり、我楽他宗のメンバーとも交流があって、納札マニアだったスタール(Frederick Starr)とも親しかった。昭和6年には童宝美術院を創設し、また団欒社を起し、昭和11年には童宝文化研究所を設立し、所長として内外人形文化のため活躍した。

笛畝とスタール

ただし、主たる活動は日本画家としてであって、大正4年9回文展に初入選、以後入選を重ね、昭和9年第15回帝展では審査員となった。帝展、日展の審査員としても重きを置かれるようになったが、玩具研究家としても期待され多くの著作を残すこととなった。
主な著作としては、〈うなゐの友〉以降、図録〈人形集成〉十集(昭和5年 芸艸堂)、玩具叢書〈人形図篇〉・〈世界玩具図篇〉(昭和9年 雄山閣)、玩具叢書〈日本玩具図篇〉(昭和10年 雄山閣)、〈東北の玩具〉(昭和13年 日本旅行協会)、〈日本郷土玩具〉(“Japanese Folk‐toys” 昭和14年 国際観光局 英文)〈日本人形大類聚〉(昭和17年 便利堂)、さらに第二次大戦中には、「大東亜共栄圏内の玩具は、これを対比して静かに観賞研究する時、そこに大きな共通点を見出す」という観点から、日本、仏印、泰國、中華民国、ジャワ、ビルマ、印度、満州国のアジア各諸民族玩具を対比した〈大東亜玩具史〉(昭和18年 大雅堂)などを刊行した。

大東亜玩具史

終戦後は世情が安定すると〈立体浮世絵〉(昭和21年 芸艸堂)、〈にんぎやう〉 (“Dolls of Japan”  便利堂)などの人形関係書をいち早く発表し、つづいて〈日本の人形〉(昭和28年 岩波書店)〈日本の人形と玩具〉(同32年 岩崎書店) 〈日本郷土玩具事典〉(同40年 岩崎美術社)など三十数冊を上梓した。


左:〈日本郷土玩具事典〉、右:〈日本の人形と玩具〉

笛畝は「玩具は世界のどんな国にも何らかの形で存在しているが、古来わが国ほどその種類に富み、しかも変化の多い工作を示しているところはないのである。」と〈日本の人形と玩具〉の「序にかえて」で強調しており、こうした思いから海外へ日本の玩具の特徴を紹介することに尽力した。また郷土玩具に対しては「欧米人は古い日本の玩具に着目し多くの資料をあつめてわが国のもつ古製玩具の中にヒントを得て、それを換骨奪胎して色々なものを産出しました。わが国の人びとはいたずらに欧米の流行に魅せられて自国の長所を忘れているかの感じがあるのです。古きものそのままではいけませんが、その持味を現代の流れの中に織り込んで、現代の進歩した材料を以て、わが国ならではの製品を発表すれば、必ずや世界の歓迎をうけることは当然といえるのです(略)私は新製の郷土玩具を否定するものではありません。新作品の中にも古製品のもたぬ趣きを示す嬉しいものもあります。」(〈日本郷土玩具辞典〉はしがき)というように将来の日本の玩具にも希望を抱いていた。昭年25年その主宰する「人形文化の会」を財団法人として、先代以来の収集人形玩具類および収容建物をそれに寄付。昭和26年には文部省文化財保護委員専門審議員に就任。昭和34年、日本の人形美術のため多年の功績に対して紫綬褒章が授けられた。昭和34年10月24日に他界した。行年77歳。葬儀は27日谷中観智院で「人形葬」として行われた。従五位勲四等旭日小授章が遺贈された。小柄であったが粋で、江戸辨で話し、通人の風格があった。

這子を見せる西澤笛畝

西澤笛畝は、荒木寛畝、荒木十畝の日本画の流れで山水花鳥画や歴史画を修めたが、仙湖の女婿になってから玩具との関係が深くなり、玩具絵を多く描くようになった。
下掲は温海の阿部常吉を写した玩具絵。


笛畝玩具絵 温海木形子(箕輪新一蔵)

下掲は清水晴風〈うなゐの友〉の一ノ関こけし這子を写したものであろう。

一ノ関こけし這子

西澤笛畝の画塾の弟子達には習画帖に手本を描いて教えていたが、その中に玩具絵も少しある。
しかし下掲七冊の大部分は山水花鳥画、静物画であり、手本としての玩具絵の数は必ずしも多くはない。日展などへの出品作も花鳥画、風景画が多く、玩具絵の画家と呼ばれることが笛畝の本意であったかどうかはわからない。絵においても所作においても、野暮を廃して、粋を好んだ風があった。

西澤笛畝筆 習画帖(橋本富美旧蔵)

西澤仙湖時代から集めた蒐集品の中にこけしも多くあったと思われるが、古雛や上手物の人形類の収蔵物を財団法人として保存するにあたって、その基金のためにかなり処分されたと思われる。昭和25年2月渋谷の東横百貨店(後の澁谷東急)で「西澤笛畝氏旧蔵品即売会」が開催され、鹿間時夫はこの即売会で斎藤幸兵衛6寸100円、佐藤周助8寸100円、久四郎3寸5分50円を入手したと〈こけし鑑賞〉に書いている。〈こけし・人・風土〉掲載の佐藤伊太郎8寸1分も、下掲の村井福太郎もこの即売会のものという。


〔25.7cm(昭和7年)(西澤笛畝、鹿間時夫旧蔵〉〕
東横デパート即売会にでた福太郎

仙湖、笛畝が集めたこけしはおそらくこの即売会でかなり数が減ったと思われるが、ある宮家より戦前のこけしの寄贈等があって、それらの一部は〈こけし辞典〉の項目写真に掲載された。

財団法人として保存されていた収蔵物は西澤笛畝の没後、昭和61年に遺族が埼玉県越生に笛畝人形記念美術館を建てて展示したが、その後閉館となった。その収蔵物は平成17年に岩槻人形協同組合が取得した後さいたま市へ寄贈されて、令和2年2月に開館した岩槻人形博物館のへ収納されて展示もされている。

〔参考〕

  • 斎藤良輔:〈郷土玩具辞典〉(東京堂出版)

 

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