大正から昭和初年ころ大阪市南の繁華街難波の楽天地にあった小美術品店。場所を変えて戦後まで店は継続した。
経営者は森田政信。森田が皆におっさんと呼ばれたことから森田乙三洞と名乗り、店名にも乙三洞を用いた。
森田は明治28年に奈良県に生まれた。明治末には大阪市西区本田三番町に移り住んだ。大正3年29歳で千日前の楽天地南横に趣味の店を開いた。大阪楽天地南横と記載された乙三洞の納札も残っている。次第に趣味人に知られた店となり、大正13年には画家の岸田劉生もこの店を訪れたことが〈劉生日記〉の記載でわかる。
昭和6年37歳の時に店は楽天地南横から難波の溝ノ川に移転する。この店は二坪ほどで古玩、文楽の首、ランブ、古い木版ものや古書を置き、時おりこけしが入荷した。こけしの蒐集家が乙三洞を訪れるようになり、米浪庄弌によると昭和10年ころ、遠刈田の古品を「一本だけ残ってましテン」といって、奥から一本待ち出して客を喜ばせたという。一本50銭で、同一作者の同寸法のものが、相当数乙三洞から各地の蒐集家のもとに流れて行った。
下掲の小原直治21.1cm(米浪庄弌旧蔵)は乙三洞から出た一本である。
小原直治〔 21.1cm(大正中期)(カメイ美術館)〕米浪庄弌旧蔵
昭和12年43歳の時、岸本彩星の子寿里庫叢書第壱編である「天王寺の蛸々眼鏡」を乙三洞から発行した。岸本彩星は本名五兵衛、岸本汽船の社長を務めた人で、森田乙三洞の面倒をよく見た人物。そのコレクションの堂号を子寿里庫と称した。
昭和19年に難波高島屋の前あたりが建物疎開で取り壊されることになると、乙三洞は前年に亡くなった三好米吉の柳屋の建物に入居した。しかしこの家も昭和20年の3月に空襲で焼けてしまった。
その後は南区安堂寺橋通りの御堂筋のところにあった岸本彩星の家作に店を出し、戦災を受けた岸本の子寿里庫の焼け残った外国玩具や図書を主として乙三洞が扱った。こけしも多少はあり、また取り寄せたものもあって、昭和22年、鹿間時夫が購入した鈴木幸之助 25.0cm(〈こけし鑑賞〉掲載)はこのときのものという。下掲の中鉢新吾もここで購入している。
昭和26年には鰻谷仲の町に移り、当初貸本を主に若干の小美術品を扱った。昭和27年ころ、天井から下げたひもにこけしを結び少量売っていたが、そのころ中屋惣舜は晩年の佐藤文六を購入している。その後貸本だけになり、昭和34年に森田政信は65歳で亡くなって乙三洞は閉店した。
大阪歴史博物館には、乙三洞の描いた宝船図が何枚か残されている。
⇒ 昭和初期の大阪の趣味家が発行した宝船
三好米吉の柳屋時代に発行した宝船図 「柳屋支店めでためでたの宝船」などがある。
当時の趣味人たちは節分の集まりで宝船図などを互いに交換した。乙三洞も「浪華宝船会」に加わって交換場所の地図を載せた「宝船授与所略図」などを発行していた。
〔参考〕
- 橋爪節也:郷土玩具から広がる「趣味人」ネットワークと近代・大阪の想像力〈上町台地今昔タイムス〉(平成29年4月)