我妻吉助

我妻吉助(あがつまきちすけ:1919~2014)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤松之進/佐藤好秋

弟子:六郷満/菅野昭一/佐藤正廣/我妻敏/大賀敏明

〔人物〕 大正8年11月27日、宮城県刈田郡宮村下別当の農業我妻金吉、いのの次男に生まれる。長兄は市三郎、我妻市助は市三郎の長男である。子供のころに一家が青根に移ったため、遠刈田尋常小学校に就学し卒業した。最初は父に従って山仕事に従事したが、昭和9年16歳で遠刈田新地の佐藤好秋について木地の修業を始めた。昭和14年応召、北支派遣軍に従軍、北部仏印で終戦を迎えた。昭和21年4月に帰還し、6月より花巻の日立製作所、24年4月より中幡操の経営する白石の共栄木工場に勤めた。中播の工場では木地を挽いて、バットや新型・旧型のこけしを作った。六郷満や菅野昭一は共栄木工場時代の弟子である。またこの頃工場に来た甥の我妻芳夫にも技術指導を行った。昭和26年6月より仙台市東七番町で独立、こけし製作に専念するようになった。佐藤正廣はこの時代の弟子である。事業家でもあり、みちのくこけし会(みちのく工芸)を昭和33年に組織し、会員一万二千人を集めて旧型こけしの頒布会を行ったが、資金面で行き詰まり昭和37年に倒産した。その後は今野幹夫らと共に、東七番町の大賀貞治の工房に間借りして木地業を続けた。大賀貞治は元木工職人で魚箱や轆轤仕事、こけし材の製材などをしており、みちのく工芸の営業中は、そこで材木製材の職工として働いていた人物であり、自宅にも工房を持っていた。
昭和45年仙台市南小泉に工場を新築して、こけしの製作を続けた。この時代に佐藤雅弘が職人となり、また大賀貞治の長男大賀敏明、酒井正二郎、佐藤賢一、広井道顕広井政昭等に旧型こけしの指導を行った。昭和47年より、長男の敏が木地の修業を始めてこけしも作るようになった。その後、長男敏とともに秋保工芸の里に移り、こけし製作を続けた。また孫の我妻真人にも指導を行った。
平成26年1月17日没、行年96歳。

我妻吉助
我妻吉助 昭和39年

〔作品〕 初出の文献は、橘文策の〈木形子・5〉(昭和13年11月発行)の縣別こけし展望であるが、写真紹介された6寸は盛秀太郎のように胸の膨らんだ変わり型のこけしであった。同じこけしは〈こけしと作者〉にも再掲された。〈古計志加々美〉に掲載された9寸3分は角頭の堂々としたこけしであり、解説には応召直前の最終作であるとして、「頗る鮮やかな作行きを示す。特に掲出する所以である。」と記し、高い評価を与えている。
深沢コレクションにある小品は、猫鼻の作り付けで、ロクロ模様だけの胴模様の珍しい作である。

〔10.6cm(昭和14年)(深沢コレクション)〕
〔10.6cm(昭和14年)(深沢コレクション)〕

下掲は昭和14年5月の作、胴模様は珍しく、佐藤茂吉なども描いており比較的古い様式かもしれない。


〔31.1cm(昭和14年5月)(ひやね)〕

下掲は昭和14年7月の作、戦前の吉助の標準的な作風であろう。こうしたこけしを作ったすぐ後に応召となって遠刈田を離れた。


〔24.8cm(昭和14年7月)(鈴木康郎)〕

戦後仙台で作り始めたものは、新型の影響の混じるものであったが、昭和30年代後半から松之進の作風に学んだこけしを作るようになった。緊張感や張りのある表情で、見るべき作も多い。弟子の木地に描彩したものもかなりあるというが、木地を挽いた人の判別は殆ど不可能である。

〔30.5cm(昭和39年)(橋本正明)〕
〔30.5cm(昭和39年)(橋本正明)〕

〔伝統〕 遠刈田系吉郎平系列。仙台で長く仕事をし、多くの弟子職人と働いたので、影響力は大きかった。長男我妻敏、孫真人が後を継いで、秋保工芸の里で木地製品やこけしを作っている。

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