磯谷直行

磯谷直行(いそがいなおゆき:1900~1932)

系統:遠刈田系

師匠:海谷七三郎

弟子:

〔人物〕 明治33年4月25日、福島県耶麻郡吾妻村大字蚕養字村西甲140の磯谷留四郎、エンの長男に生まれる。大正3年小学校卒業後、15歳より姉婿磯谷茂が経営していた山市商店で、職人海谷七三郎について木地を修業した。またこけしも挽いた。この師弟関係は昭和3年ごろまで続いた。同村の二瓶幾次の三女フチと結婚、守雄、ユキ子、忠重、茂徳の三男一女をもうけた。武井武雄への書状では一時栃木県那須のあたりで木地を挽いたこともあるという。
昭和5年〈日本の郷土玩具・東の部〉ではじめて写真紹介された。
昭和7年12月5日午後6時30分、沼尻山甲2855番地俗称五号沢で崖より転落死亡した。33歳。
松谷和男は〈こけし手帖・93〉で正式な死亡月日を11月8日としているがその根拠は記していない。戸籍では12月5日となっている。
橘文策は中ノ沢で直行に会ったことがあるようだが、詳しい記録は無く、家族を残し若く非業の最後をとげた直行の生涯についてはよく知られていない。


磯谷直行(右)とその家族

〔作品〕 こけしの製作は昭和5年前後に限られている。年代変化を議論するまでも無く、残る作品は少なくみな貴重である。
下掲の図版は武井武井著の〈愛蔵こけし図譜〉掲載のもの昭和4年4月入手とあり、図版左端は〈日本の郷土玩具・東の部〉で始めて紹介された9寸3分の直行である。


〈愛蔵こけし図譜〉掲載の磯谷直行 昭和4年4月に入手のもの

下掲の尺5分は、武井武雄が入手した直行とほぼ同趣であり、同じ昭和4年頃の作と思われる。大寸でありながら遠刈田の小寸作り付けのいわゆるコゲスの形態をもち、胴の上下をロクロ線で締めているなどユニークな作風である。


〔31.8cm(昭和4年)(庄子勝徳)〕

下掲は鈴木鼓堂旧蔵の8寸、残るほとんどの作品が作り付けの形態であり、この遠刈田大寸の形態の直行はそれほど多くは無い。この様式ではひょろりと細長いものもあり、武井武雄はステッキの様なものと表現した。 


〔24.5cm(昭和初期)(鈴木鼓堂旧蔵)〕

磯谷直行の標準的な作品は、遠刈田のコゲス様のもの。細筆の鋭角的な面描に、独特の赤、緑の重ね菊模様を胴に描いたものであった。


〔21.2cm(昭和初期)(日本こけし館)〕 深沢コレクション


〔17.5cm(昭和初期)(鈴木康郎)〕

〔伝統〕遠刈田系 木地系統として松之進系列 こけし自体は本流から外れて独特の様式
磯谷直行の型は昭和42年鹿間時夫の依頼により、佐藤正廣が復元した。
また、中ノ沢の蛸坊主を作る工人たちの中にも依頼されて直行型を作るものがいた。

 

〔参考〕

  • 直行のこけしの源流
    磯谷直行のこけしは師であった海谷七三郎のこけしを継承していたことは確かと思われるが、その師であった七三郎のこけしは確認されていない。七三郎は青根佐藤久吉およびその長男久助に技術を習っているので、その作風を継承したであろう。
    しかし、久吉、久助のこけし自体も明確ではない。ただ下掲の黒くなったこけしは川上克剛旧蔵の青根古作で久助のこけしの可能性がある。(右端は佐藤菊治の復元作)
    面描細筆で鋭角的、直行のこけしにもややその面影は残る。佐藤久助海谷七三郎ー磯谷直行と作風の継承があったかもしれない。
    また直行の細筆の重ね菊、その赤と緑の交互の描法などからも青根の古い手法を伺うことができ興味深い。


左 19.8cm 青根古作(川上克剛旧蔵) 
右 20.4cm(昭和41年)(橋本正明) 佐藤菊治による復元

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