阿部治助(熊治郎長男)

阿部治助(熊治郎長男)(あべじすけ:1885~1952)

系統:土湯系

師匠:阿部熊治郎

弟子:阿部金一

〔人物〕   明治18年9月23日、福島県信夫郡土湯村字下ノ町19番地(現在の土湯温泉町)の木地業阿部熊治郎、コヨの長男に生まれる。タツ、キク、サツ、タヨの姉があり治助は第5子にあたる。弟に平治、新次郎がいたが、平治は4歳で亡くなった。妹も居り、3男6女の兄弟であった。祖父は阿部吉弥であるが、治助が生まれた翌年に亡くなり熊治郎が下の松屋の家督を継いだ。熊治郎の弟に太郎吉、松吉、常松、末松がいた。5男であった末松は明治33年福島の小幡文助の養子となった。
父熊治郎は吉弥より木地を伝承して木地業を継いでいたが、明治18年4月、静岡県出身の膽澤為次郎が土湯にきて一人挽き(足踏みロクロ)の技術を伝授することになったので、その作業場となった米殻商加藤屋の二階に通って、約3ヵ月間新技術の習得に努めた。このとき熊治郎は36歳であった。
治助は熊治郎について木地を学んだが、明治38年21歳のとき、土木請負業の大石組に入り、松川の河川工事、堤防工事などに従事した。後に弟の新次郎も同じ大石組にはいり、兄弟二人とも大石組八人衆といわれていた。本業は土木作業で、木地はもっぱら河川工事の無い冬季間に行っていた。
大正元年8月信夫郡佐倉村の佐久間民蔵4女ミサと結婚、ノフ、アサノ、金一が生まれたが、アサノは4歳で亡くなった。ノフもまた昭和5年19歳で亡くなった。
家庭的には子供の夭折があり、また明治43年、大正2年の水害などあって、不運が重なり、日蓮宗や天理教の信心に救いを求めた時期もあった。
さらに、昭和2年の土湯の大火は、治助の家の近くで起こり、全焼したが、治助は逃げることが出来ず、火中で祈祷しているところをようやく救い出されたという。
昭和に入ってこけし蒐集家がたずねるようになると、注文に応じてこけしも作ったが、治助の作品は当時の蒐集界に評判が悪く、酷評されることが多かった。
昭和20年1月には一人息子の金一が肺結核で亡くなり、子供にはすべて先立たれた。昭和24年には妻ミサも他界、昭和27年に金一の妻シナに勝英を入婿としたが、治助はその年、昭和27年9月22日に亡くなった。行年68歳。
口数少なく、趣味道楽は無く、仕事一途の生活だったという。訪ねる蒐集家にも無愛想で寡黙だったため 好印象を持たれないままで一生を終わった。
〈こけし手帖・28〉の「名品こけしとその工人」は阿部治助を取り上げており、鹿間時夫による治助の経歴追求と、熱のこもったその記述がある。


阿部治助 昭和16年10月18日 撮影:田中純一郎

〔作品〕  〈こけし這子の話〉で、治助のこけしは写真掲載されたが、そのこけしの作者名は阿部金蔵として紹介され、渡辺作蔵のこけし写真の作者名が阿部治助として紹介された。

〔30.3cm(大正初期)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵
〔30.9cm(大正初期)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵 〈愛蔵こけし図譜〉のモデル

上掲のこけしは、武井武雄著〈愛蔵こけし図譜〉図版のモデルとなったこけし。「こけし通信」には、下図についての次のような石井眞之助による紹介文を引用している。「図譜所載の大きい方(一尺二分)は、福島県伊達郡のある旧家の娘さんの玩具箱から直接西尾のこけし草堂へ貰われて来たもの、後頭部に敦子と署名してあります。当時敦子さんは一五歳、別れを惜しんで泣いたでせう。現在では立派な花嫁御寮になって、こけしを斜めにオンブする年配の女の子が一人位ある筈です。」 こけし草堂というのは石井眞之助の居室名(堂号)。
このこけしには、実際に女児の愛玩の対象として過ごした日々があり、その表情は昔日の陽だまりの中に居るような幸福を追憶しているかのようにも見える。

武井武雄〈愛蔵こけし図譜〉 阿部治助
武井武雄〈愛蔵こけし図譜〉 阿部治助

下の写真は、天江富弥旧蔵で〈こけし這子の話〉に阿部金蔵名義で掲載されたもの。前髪や両目の描法、表情の印象は前掲の石井旧蔵とかなり近く、ほぼ同時期、現存の治助としては最も古いものの一つであろう。

〔20.9cm(大正初期)(高橋五郎)〕 天江富弥旧蔵 〈こけし這子の話〉掲載
〔20.9ccm(大正初期)(高橋五郎)〕 天江富弥旧蔵 〈こけし這子の話〉に阿部金蔵名義で掲載

ただ、〈こけし這子の話〉で、この治助が金蔵名義で紹介され、渡辺作蔵が治助名義で紹介されたことが治助にとっては不運であった。当時は作蔵の価値を評価するものが居らず、武井武雄は〈日本郷土玩具・東の部〉に作蔵のこけしを「阿部治助の化けて出そうな薄穢い怪奇魅力」と書いたため、治助のこけしに対して「化けて出そうな薄穢い」こけしという定評が固まってしまった。
昭和10年前後には、治助と対蹠的に仕上げに念を入れて、巧緻に描く斎藤太治郎がいて、蒐集家も競って太治郎のこけしを求めようと奔走したので、土湯の土地の人の間でも、「名人太治郎、下手の治助」という評価が出来てしまった。
深沢要でさえ「阿部治助が不健康な表情のこけしを造っている。あのねっとりした胴模様などは懐かしい味を持っているのに。何とか今少し親切に作れないものだろうか。尤もまじめに話すほうが間違っているとの説もある。」〈こけしの微笑〉と治助には極めて冷淡であった。
高久田修司は、昭和13年11月の〈木形子・6〉に「治助の辯」という小文を書いて、治助に対する蒐集家の無責任かつ不当な、そして人格にも及ぶ冷評に対して反論し、治助を擁護した。
一方、武井武雄は、渡邉作蔵ではなく阿部治助のこけしを見て、その評価を一変させている。「(斎藤太治郎は) 土湯の代表作として自他共にゆるすものでありましたが、阿部治助の真作を見るに及んでは、覇権は治助への感 筆者は頻りなるものがあります」〈愛蔵こけし図譜〉(こけし通信・17)。
〈古計志加々美〉(昭和17年)も治助を原色版で掲載、「現在の土湯こけし中 最も素朴優雅なもの」と解説し、ようやくこの頃に治助の高い評価は定着した。ただ、こうした正当な評価をようやく得られるようになった頃には、治助はもうこけしも十分に作れない身体になっていた。

下図に示す大正末期から昭和初年の作は、私生活では困難を極めていたが、まだ蒐集界からの冷評、批判も起こらない時期で、安定して古風優雅な作行となっている。

〔右より  21.5cm、28.8cm(昭和5年頃)、23.6cm(大正末期)(鈴木鼓堂旧蔵)〕
〔右より  21.0cm(昭和初年)(北村勝史旧蔵)、28.0cm(昭和5年頃)、23.5cm(大正末期)(鈴木鼓堂旧蔵)〕

下図は有名な鹿間時夫の天理教時代といわれる作。昭和2年に大火があって治助の家が全焼したころの時期のもの、一心に天理教にすがっていた頃の作と伝えられる。表情写楽ばりで、その凝視力の強さは抜群であるが、その強さゆえに情感の潤いは削ぎ落とされている。

〔41.0cm(昭和初期)(鹿間時夫旧蔵)〕
〔41.0cm(昭和初期)(鹿間時夫旧蔵)〕

〔19.0cm(昭和初期)(目黒一三)〕
〔19.0cm(昭和初期)(目黒一三)〕

下図の二本は、昭和12年深沢要が土湯を訪問したときの作であろう。〈こけしの微笑〉ではこの訪問で太治郎にのみ大きな関心を寄せ、治助については「不健康な表情」と書いているが、決して不健康ではない。

〔右より 13.6cm、18.3cm(昭和12年頃)(日本こけし館蔵)〕 深沢コレクション
〔右より 13.6cm、18.3cm(昭和12年頃)(日本こけし館蔵)〕 深沢コレクション

土湯のこけし群を概観すると、湊屋という大きな山脈があり、一方に松屋の山々がある。その中で治助はひときわ高く聳えていて、湊屋に対峙できる唯一の弧峰といえる。湊屋の深い情味と、その底にある明るさに比べると、治助はあくまでも渋く、感情を内部に沈潜凝結させて動かない。

なお、画家の竹久夢二は大正6年に土湯を訪れて治助のこけしを二本購入した。大変気に入っていて昭和7年に欧州旅行に赴く際にはそのうちの一本を持参したという。

系統〕土湯系松屋系列
息子金一は若くして亡くなったが、その長男敏道、孫の国敏、金一妻女の後夫となった勝英、その子敏英は治助の型を継承してこけしを作った。

 

〔参考〕

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