伊藤長一(いとうちょういち:1916~1980)
系統:鳴子系
師匠:伊藤松三郎
弟子:
〔人物〕 大正5年2月28日、山形県最上郡舟形村長沢の農業伊藤石之助長男に生まれる。祖父長七は長沢の出身で、鳴子木地師より技術を受けて立木の小物類を挽いたという。師匠名は不明。長一家には木地の「覚」(伊藤長作文書)が伝えられており、その末尾に「山形県出羽国最上郡新庄長澤村 明治十九年八月二十五日 長作」とある。その文書巻頭には、一金独楽に続いて、「こけし大一番六寸、中二番四寸、小三番二寸五分」の絵が描かれており、貴重な古鳴子追求の資料となった。末尾の長作は、長一の祖父長七の長兄である。
この「覚」より長作、長七の師匠はこけし作者であり、鳴子の小物挽きに属する木地師と思われる。長七が作者かどうかは不明であるが、この寸法帳を受けているのだから、ある程度は作ったと思われる。長七は大正10年ごろに没した。
長一は農業のほか、酪農、鮎漁、炭焼き、山菜取りを兼業。山村を有効に使用する目的で、昭和14年秋、同村伊藤肇宅にロクロ5台を設置し、鳴子から伊藤松三郎を招いて木地を修業した。このときの弟子は長一、伊藤肇、三浦光美、石川源三郎の4名であった。昭和15年7月入隊、南支を経て昭和18年9月に除隊、以後ふたたび松三郎の指導を受けつつ昭和21年春に独立した。
昭和37年吉田健次によって発見され、〈こけしガイド〉、〈こけし手帖・56〉に紹介された。小国川の漁業協同組合の理事等も務め、そうした公務の傍ら閑期にこけしを作っていた。その後、村山市楯岡に移り一時こけしも作ったが、間もなく病を得て娘婿のいる山形市沼野辺に移り、病気静養に努めたが、昭和55年10月21日に心不全のため天童の入院先で没した。行年65歳。
〔作品〕 下掲のように初期のものは染料が手に入らなかったので、ポスターカラーで描彩をしていた。しかし描彩そのものはしっかりしており、戦前のこけし製作の修業も本格的であったことが分かる。この時期の作品の多くは酒田市渡辺玩具店より売られていた。
〔右より 14.6cm、14.4cm、(昭和23年頃)(沼倉孝彦)〕
昭和31年の〈こけし手帖・8〉では祖父の名の伊藤長七で作者名のみ紹介されたが、いまだ長一の作品は一般的に知られるようにはならなかった。従って昭和37年の吉田健次による紹介以前の作品は多くは残っていないが、この時期には彩色はポスターカラーから染料へと改善されている。描彩は松三郎の型に従っているが、胴模様など一部に庄司永吉の影響もあるかもしれない。散らした楓模様は独特である。この時期は表情可憐で描彩も流麗、垢抜けのしたこけしであった。
吉田健次による紹介以後、蒐集界にも知られるようになり、長一の個性の出たこけしになっている。
〔右より 29.4cm(昭和40年頃)「名古屋こけし会 記念」、30.3cm(昭和39年7月26日)(沼倉孝彦)〕
下掲は昭和47年の作であるが、おっとりとした表情でひなびた装いのこけしになった。公務の合間に作る程度であり製作数は必ずしも多くなかった。昭和40年代の作品が比較的多く残されている。
昭和47年「覚」の描画をもとに復元を試みたことがあった。面白いものが出来たが一般には売りだされなかった。
〔右より 11.5cm、7.8cm(昭和47年11月)(橋本正明)〕 「覚」のこけし復元
〔伝統〕 鳴子系金太郎系列
〔参考〕
- 吉田健次:小さな伝統の燈-伊藤長一〈こけし手帖・56〉(昭和40年)
- 橋本正明:鳴子こけしの原像ー伊藤長作文書ー〈こけし手帖・150〉(昭和48年)