遠藤幸三(えんどうこうぞう:1911~1991)
系統:蔵王高湯系
師匠:吉田仁一郎/我妻勝之助
弟子:
〔人物〕 明治44年1月5日、山形市滝山村上桜田の農業遠藤源六の四男に生まれる。父の源六は農業の傍ら、村役場の書記も勤めていた。
そのころ蔵王高湯の土産物店主であった万屋斉藤藤右衛門(藤助)が木地師吉田仁一郎を伴ってしばしば遠藤源六のもとを訪れていた。源六の家にあった槐や欅の用材を購入のためであった。そうした縁から幸三は子供のころ蔵王高湯の斉藤藤右衛門にあずけられ、ここから小学校へ通った。将来は養子にという話もあったようである。
大正11年ころ小学校を卒業し、万屋の店番など手伝いを行った。当時万屋には木地職人として我妻勝之助と吉田仁一郎がいた。大正13年になるとさらに木地職人として米沢の鈴木運吉、遠刈田の佐藤好秋が加わった。来客の多い夏場は幸三にとって店周りの仕事で多忙を極めたが、冬場は割合に余裕があった。そこで昭和2年の冬から木地職人に混じって木地を挽くようになった。主に指導してくれたのは吉田仁一郎であったが、勝之助からも種々のアドバイスを受けた。兄弟弟子として草刈目吉、栄助(姓不明)等がいた。
昭和5年徴兵検査のため万屋から離れ、検査は合格であったが兵役からは免れた。しかし丁度その頃、斉藤藤右衛門に子供が生まれたので養子の話はなくなり、実家に戻った。実家にロクロを設置して木地を挽こうとしたが仕事は思ったほどなかった。そこで銀山に行って伊豆定雄の店で働いた。やがて、矢口権佐久が山形で工場を作ったため昭和8年より1年間ほど働いた。ここでは長岡幸吉や遠藤市太郎も働いていた。
昭和9年には、東京へ出て陸軍造兵廠で働いた。昭和18年4月に応召となり通信兵となったが札幌で終戦を迎えた。復員後一時鉄道で働いたが、蔵王高湯の斉藤藤右衛門からの誘いを受け、万屋で木地を挽いた。昭和23年6月に万屋が旅館に改装され、木地工場が閉鎖されたのを機に、山形へ出て市内上山家に木地小屋を作り玩具などを作った。こけしも多く作り、山形市内の岩城人形店や渋江人形店などに卸した。昭和24年に家族に不幸があり、木地を廃業、武田酒造店製材部へ勤務し山家に落ち着いて、用材の調達搬出などに携わった。昭和34年ころより柴田はじめの勧めにより、小林誠太郎など他人の木地に描彩だけするようになった。昭和51年に武田酒造店を定年退職した。その後もこけしの描彩はおこなっていた。昭和50年代はこけし描彩を行ったが、昭和60年代に入ってからはほとんど描かなかった。
平成3年3月30日没、行年81歳。
〔作品〕〈山形のこけし〉で箕輪新一は現存する幸三のこけしの製作年代を次の三期に分けている。
- 前期 蔵王高湯の万屋時代 昭和5年以前
- 中期 戦後の万屋時代および上山家時代 昭和20年11月~昭和24年
- 後期 山家時代 昭和34年以降
初出の文献は〈古計志加々美〉で原色版に紹介された。これは前期の作例であるが、同様の作は〈山形のこけし〉の原色版で紹介された箕輪新一蔵、単色版の柴田はじめ蔵、〈古作図譜〉の久松保夫旧蔵、〈らっここれくしょん〉の2本などに見られる。
〈古計志加々美〉の解説では「吉田仁一郎の指導のもとに七ヶ年の年期をつとめあげたと言ひこけしは師匠のそれを承けつつ、独自のものを残して居る」と書かれていた。
下掲の深沢コレクション所蔵品は目の描法が〈古計志加々美〉のものとは異なっているがほぼ同様の作で昭和7年蔵王高湯を離れる以前の万屋時代、すなわち前期の作である。
〔22.7cm(昭和5年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
戦後は昭和21年11月に川口貫一郎が幸三の頒布を行っているようである〈木の花 ・第28号〉。
下掲の小寸は戦後すぐの時期に万屋に戻ったときに作ったもの、すなわち中期のこけしである。
このこけしは、橘文策が昭和22年6月に戦後の産地旅行をした折に蔵王高湯の緑屋で求めた。そのいきさつは〈こけしざんまい〉に詳しい。
〔 13.1cm(昭和22年6月)(鈴木康郎)〕 橘文策旧蔵
以降に掲載するのは後期のこけし、柴田はじめの勧めにより、小林誠太郎など他人の木地に描彩したこけしである。それぞれ木地は誰が挽いたものか判然とはしない。おそらくごく初期には小林誠太郎、以後は大宮正安のものが多いようである。
下掲二本は昭和35年ころの復活初期の作である。この時期のものは戦前の趣もある程度残っていた。
〔右より 21.7cm(昭和35年10月)、12.6cm(昭和37年2月)(橋本正明)〕
下掲の二本は晩年の作、蔵王高湯らしい濃密な味はなくなっているが、描線はしっかりしていた。
〔右より 21.2cm、14.6cm(昭和56年)(橋本正明)〕
〔系統〕蔵王高湯系万屋
〔参考〕
下掲のこけしは従来遠藤幸三作といわれていたもの。このこけしは万屋が火災にあった際に外に運び出した荷物の中にあり、その総数は約150本ほどであったという。それを緑屋の斉藤源吉が引き取り、その大部分が川上克剛の手にわたった。小寸でも桜崩しと重ね菊を描き分けてあり、飄逸として雅味のある面白い作品だった。川上克剛から遠藤幸三作として多くの収集家に配られた。
ただ、箕輪新一が確認したところ遠藤幸三自身は自分の作ではないと言ったという。万屋の作者には間違いないが、誰の作かは依然判然としない。ただ、橘文策が昭和22年に入手した上掲写真のこけしと比較すると面描、五弁の桜崩しの描法等共通点が多く、幸三作であっても不自然ではない。
一方、戦後の万屋で木地を挽いたのは幸三のみであるから、もし幸三作でないなら戦前の他の作者が作り貯めておいたものということになる。
〔右より 5.8cm、5.4cm(昭和22年以前)(橋本正明)〕
- 矢田正生:「戦後の幸三こけし」〈木の花 ・第28号〉 (昭和56年)
- 箕輪新一:「万屋 ー時代と周辺ー(中)」〈木の花・ 第29号〉(昭和56年)
- 四園楸:「蔵王萬屋・最後の工人遠藤幸三」〈こけし手帖 ・326号〉(昭和63年)
- 遠藤幸三工人のこけし : こけしのなかのわたし – livedoor Blog
- おぼちゃ園 023: 遠藤幸三 – 阿房こけし洞