大内慎二

大内慎二(おおうちしんじ:1957~)

系統:土湯系

師匠:大内一次/佐久間芳雄

弟子:

〔人物〕 昭和32年5月10日福島県岳温泉の会社員大内修二の二男に生まれる。 母は大内一次の妹であったが、一次に子供がいなかったため夫婦で一次の養子となった。したがって一次は慎二にとって伯父であり祖父であった。
和光大学を卒業した。大学在学中より岐阜県「高峰楽器製作所」、ブランド名「タカミネ」にて、ギター製作の基本を学ぶ。ギター製作家・中出敏彦に師事し、内弟子となって修業した。 その後、故郷の岳温泉に戻り、ギター製作者として独立した。
昭和58年3月祖父の大内一次について木地を学び、こけしの製作を始める。昭和59年夏ころより曾祖父大内今朝吉の復元を始める。昭和60年祖父大内一次が他界したので、佐久間芳雄についてさらに木地挽きを修業した。平成6年病を得て一時休業。回復後、平成12年バイオリン製作も始める。平成14年7月、今朝吉が影響を受けた土湯の西山辨之助のこけしに挑戦したいという気持ちを、辨之助の孫憲一に伝えて了解を求めたところ、快諾を得たので、辨之助型も作るようになった。原は天江コレクションの8寸1分である。辨之助型初作は平成14年8月で、その初作10本が8月18日に西田記念館に納品された。東京こけし友の会9月例会の「例会ギャラリー」においても辨之助型は紹介された。昭和16年には植木正子旧蔵を原とする辨之助型も製作した。
平成22年頃より楽器製作も、こけし製作も休止し、現在に至る。

祖父大内一次と慎二 昭和58年11月 〈伊勢こけし会だより・21〉より
祖父大内一次と慎二 昭和58年11月
〈伊勢こけし会だより・21〉より


大内慎二 平成15年

〔作品〕 極初期は父一次のこけしを手本にしていたが、昭和59年7月に岡戸正憲蔵の大内今朝吉の復元を行い成功した。以後は今朝吉型が中心となり、今朝吉の名品を次々に復元した。こけし店「つどい」が初期の今朝吉型を多く扱った。

〔 18.5cm(昭和59年7月7日)(橋本正明)〕 今朝吉型初作
〔 18.5cm(昭和59年7月7日)(橋本正明)〕 岡戸正憲蔵今朝吉の復元 今朝吉型初作

下掲は、同59年12月高橋五郎蔵の天江コレクション中の西山辨之助と大内今朝吉を復元したもの。この2本も原物を見た上での製作であり、迫真の快作となった。


〔右より 18.5cm 今朝吉型、24.5cm 辨之助型(昭和59年12月)(高橋五郎)〕

昭和59年後半より三鷹台のたつみが大内慎二のこけしをシリーズとして頒布するようになった。これによりコレクターの今朝吉や一次のこけしの復元が継続的に行われた。


〔20.2cm(昭和60年)(橋本正明)〕 たつみ頒布


〔23.1cm(昭和60年)(橋本正明)〕


〔右より 9.8cm、15.4cm(昭和62年)(橋本正明)〕 たつみ頒布


〔16.8cm(昭和62年)(橋本正明)〕 たつみ頒布

中屋惣舜は、「蒐集家の気持ちの勘所をとらえる」ことを「好き心を掴む」と言った。慎二はまさに土湯党の蒐集家の好き心を掴んで離さない工人であった。今朝吉のこけしは同じ湊屋でも艶やかなこけしではない、むしろ霜枯れた野を風が縹渺と吹き抜けていくような情感があった。慎二は清新な若さの力とともに、独り寂として立つ今朝吉の厳しさを意識して表現することが出来た。楽器製作を通じて身についた音への感性、妻恵津子 の絵画への感性、そうした美を追い続ける日常の環境が、慎二のこけしを生み出す温床となっていたのであろう。再起が望まれる。

〔右より 30.0cm(平成10年)、10,7cm(平成15年)(橋本正明)〕
〔右より 10.7cm(平成15年)30.0cm(平成10年)(橋本正明)〕

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〔24.4cm(平成14年9月)(庄子勝徳)〕天江コレクションの西山辨之助復元

〔18.2cm(平成17年)(〈伊勢こけし会だより・117号〉頒布〕 今朝吉型
〔18.2cm(平成17年)(〈伊勢こけし会だより・117号〉頒布〕 植木正子蔵の西山辨之助復元

〔29.2cm(平成19年3月)(庄子勝徳)〕
〔29.2cm(平成19年3月)(庄子勝徳)〕

〔伝統〕 土湯系湊屋系列

〔参考〕
1. こけしのなかのわたし
2. こけし千夜一夜物語第860夜
3. ムーの棚から:大内慎二

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