大内今朝吉(おおうちけさきち:1883~1962)
系統:土湯系
師匠:平栗馬吉
弟子:大内一次
〔人物〕 明治16年11月25日福島県安達郡岳温泉の旅館主鈴木治三郎・カメの次男に生まれる。父治三郎は、明治10年安達郡石井村鈴石字堀越より婿入りし、温泉宿扇屋を営む傍ら農業にも従事していた。この当時の岳温泉は深堀という場所にあった。
今朝吉は明治35年20歳の時、岳温泉で平栗馬吉について木地を修業した。その姓には平栗と白栗の二説があり、〈こけし辞典〉では「白栗」が正しいとしたが、大内慎二が「白栗は間違いで平栗が正しい」と言っていたのでここでは、師匠名を平栗馬吉としておく。
平栗馬吉は明治15年岳の生まれ、今朝吉より1歳年長である。その生家は農業の傍ら豆腐屋を営んでいた。馬吉は明治32年18歳のとき、福島から佐久間由吉を職人として呼び、木地製品を製作させ販売するが、馬吉自身も由吉について木地を習い、半年程して由吉が福島へ帰った後も木地業を続けていた。
今朝吉の他、明治36年には岳の二瓶辰弥を弟子とした。平栗馬吉は明治41年27歳で早逝した。平栗家では馬吉の跡を継いで木地業を行う者はなく、一家は郡山に去ったという。
また、二瓶辰弥は7、8年木地を続けたが、木地業が不振となると廃業して旅館業に転じた。二瓶辰弥は明治13年生まれ、昭和10年54歳で亡くなっている。
明治36年9月に水害があり、温泉地が壊滅したので、岳温泉は深堀から現在の地に移転した。
今朝吉は明治36年暮れに入営、日露戦争に従軍した。明治38年岳に戻り、日用品・土産物の店松野屋を開業した。店にはロクロを据えつけてこけしなど温泉土産を挽いた。温泉客の少ない時期には農業にも従事したという。
橘文策の調査によると、岳の松野屋では、西山辨之助や勝次が働いたこともあるという〈木形子・2〉。また西田峯吉は、小幡末松も松野屋の職人の1人だったという〈こけし手帖・101〉。松野屋では今朝吉自挽きの木地製品に加えて西山辨之助のこけしなども土湯から運んで並べていたので、その縁で大正2年、土湯の西山辨之助三男弥三郎が岳に来て松野屋の職人を勤めたともいう。松野屋と西山辨之助の西屋とは強いつながりがあった。明治42年長男一次が生まれる。
大正9年、岳の大内鉄蔵・リキと養子縁組し、妻アキ・長男一次他4人の子とともに入籍して大内姓となった。
長男一次は大正13年より栃木県日光の白井亀吉について木地を修業、昭和4年に帰郷した。今朝吉は帰郷した一次にこけしや小物の技術を伝えた。
初出の文献は武井武雄の〈日本郷土玩具・東の部〉(昭和5年)であるが、このときの紹介ではこけしの写真は掲載されず、今朝吉もこけし製作を中止していると書かれている。写真紹介は橘文策の〈木形子・2〉(昭和13年)が最初である。
昭和12年以降、一次が家業の中心になり、今朝吉の製作数はかなり限られたものになったようである。そのため一時、死亡したという説が蒐集界に流れた。生存の修正はようやく戦後昭和29年10月の〈東京こけし友の会便り〉によって発表された。以後に一次の木地に描彩(面描のみ)を行った作品がある。
昭和35年頃より目が不自由になり面描も行わなくなった。
昭和37年6月3日没、行年80歳。
〔作品〕〈こけし辞典〉では今朝吉は、昭和初期には休止していたが、一次が日光の木地修業から帰った昭和4年春頃、小物挽きの手本を作るために復活したとされており、知られているこけしも、戦前では昭和5年頃から昭和10年頃までのものであるとされていた。
しかし、天江コレクションには大正期とされる今朝吉があり、またこれと非常に近い作行のこけしが渡部衞蒐集品の中に二本ある。そのこけしの一つには「大正14年作」と記入があり、大正期に大内今朝吉がこけしを製作していたことは確実となった。
大正期の作品には前髪の両脇に赤で綛(かせ)を描いているのが特徴的である。従来は、今朝吉は綛を描かず、昭和13年に作ったらっここれくしょん蔵品中の作に例外的に綛を描いたという通説があったが、古い作には綛を描いていたのである。
〔右より 18.0cm、19.8cm(大正14年)(渡部衞)〕
左のこけしの胴底に「大正14年作」の記入がある。
今朝吉の残る作品は必ずしも多くはないが、その大部分は昭和5年から10年頃の作である。昭和5年頃の作は、いわゆる三角胴で。直線的に裾に向けて太くなる形態のものが多い。表情も緊張感があって、この時期をピーク期と呼ぶ蒐集家もいる。〈こけし辞典〉で中屋惣舜は「胴に赤と淡いろくろの緑がサラリとして味わい深く、表情枯淡、土湯こけしの真髄を見るようで、玄人好みの最たるものである。」と評した。下の写真の右が中屋惣舜旧蔵品である。
〔右より 21.ocm(昭和5年頃)(河野武寛)、19.7cm(昭和5年頃)(北村育夫)〕
〔右より 14.2cm(石井政喜)、18.8cm(国府田恵一)、17.6cm(河野武寛)、21.5cm(植木昭夫)、19.7cm(鈴木康郎)鈴木鼓堂旧蔵 (製作年代はいずれも昭和5年から10年)〕
〔右より 24.0cm(田村弘一)、30.5cm(鈴木康郎)、32.0cm(目黒一三)(製作年代は昭和8年から10年頃)〕
昭和7、8年頃からの作には一次の木地に面描したものがあるようだ。胴最下端の赤ろくろ線の下に白い余白があるのが今朝吉、余白が無く赤ろくろで終わるのが一次だという。また、胴のシルエットにやや緊張感が無いのが一次だともいう。
下の写真は高久田脩司が昭和13年9月23日に求めた今朝吉作の頭部であるが、これには大正期と同様赤い綛が描かれている。大正期からこの時期までの期間は綛を加えなかった。
今朝吉のこけしにふれて、鹿間時夫は、「このような渋いこけしを眺めていると、文楽の小屋の中で、浄瑠璃の音が流れてくるような、古いノスタルジアの彼方へ没入していくのを感じる」と〈こけし鑑賞〉に書いた。土湯本地を離れた岳で製作を続けたためか、今朝吉のこけしは、浄瑠璃といっても心中物の濃密な艶ではなく、むしろ無駄なものをそぎ落とした軍記物の、腹に響く味わいかもしれない。
〔系統〕 土湯系。 木地の伝承が佐久間由吉-平栗馬吉-大内今朝吉という系譜であるから湊屋系列であるが、作品、とくに大正期のものを見ると西山辨之助・勝次の影響が強いと思われる。
大内今朝吉型は、戦後大内一次が復元、また一次の甥の大内慎二も復元継承した。
〔参考〕
- 〈こけし手帖・101〉 西田峯吉 「岳のこけし」
- 〈こけし手帖・653〉 鈴木康郎 「談話会覚書(22) 大内今朝吉・一次のこけし」