大沼君子

大沼君子(おおぬまきみこ:1915~2013)

系統:鳴子系

師匠:大沼新兵衛

弟子:

〔人物〕 大正4年5月14日、宮城県玉造郡鳴子町の大沼新兵衛、きみよの長女に生まれる。戸籍表記はキミコ。高等小学校卒業後、大正14年4月に家族で仙台に移った。父新兵衛は仙台で仙台工業試験場に勤めた。母きみよは昭和16年に亡くなり、その後君子は父新兵衛を助けて一家を切り盛りした。昭和20年7月の仙台空襲で焼け出され、一家は鳴子に戻った。昭和32年に父新兵衛が亡くなってから、君子はこけしの描彩をする様になり、新兵衛の弟子佐藤俊雄などの木地に新兵衛型のこけしを描いた。新屋敷の山道を登った右手の家には、君子が集めたこけしが整然と陳列されていて、多くの蒐集家が鳴子を訪れると立ち寄る場所のひとつになった。平凡社カラー新書〈こけしの旅〉にはその部屋と中央に座る君子の写真が見開きで紹介されている。
老後は、昔なじみのこけし愛好家との交流を楽しみにしていて、小ぶりの急須で入れてくれるお茶を飲みながらの話は尽きなかった。
やがて山道の家から更に上手にある町営の大穴住宅に転居、山歩きをしては山野草を採取し、住まいの周囲に植えて楽しんでいた。こけしの描彩も続けていた。
平成15年、町営住宅が閉鎖されることになり、一時上鳴子の農民の家近くのアパートに入ったが、高齢になったため施設に移った。その後は伊藤松一など親しい限られた人との付き合いだけになった。
平成25年1月30日没、99歳。

大沼君子 昭和40年
大沼君子 昭和40年 山道の家の前で

大沼君子 平成14年9月
大沼君子 平成14年9月 大穴住宅の玄関で

なお、昭和47年1月の小説新潮に掲載された佐多稲子の随筆「雪国での再会」(随筆集:〈ふと聞えた言葉〉に再録)は大沼君子との再会を綴っている。


「ふと聞こえた言葉」 佐多稲子から大沼君子に贈られた

これは昭和30年1月に佐多稲子が大沼新兵衛を取材して「人形と笛」〈文芸春秋別冊・昭和30年8月〉を書いたときに君子と会ったことに対する再会であった。この中で佐多稲子は君子の事をこう書いている。「新兵衛さんのいられたときは、父の指図で言葉数も少なく立ち働いていた君子さんだったが、今は、はきはきと語って、この質素な住まいの中にこけしを並べ立てているのも、こけし愛好者が訪ねてくるので、そのときのために集めてかざっておくのだ、といわれた。私設のささやかな、こけしの陳列場というわけである。郷土のこけしを愛し、父の仕事を大切に、自分もその道を歩んでいる人らしいことだった。」
なお、鳴子ホテルの三階に陳列されている松宮コレクションは、君子の妹である松宮敏子の寄贈によるものである。

〔作品〕 下掲写真のこけしは父新兵衛が亡くなってほぼ1年後、極初期の作である。新兵衛の型を丁寧に継承している。

〔20.8cm(昭和32年10月2日)(橋本正明)〕
〔20.8cm(昭和33年10月2日)(橋本正明)〕

思い出こけしとは若い頃に働いていた肘折の作風を思い出して新兵衛が作ったもの。君子はこの思い出こけしの型も折に触れて製作した。

〔右より 24.5cm(昭和41年1月思い出こけし初作、28.5cm(平成玩年11月10日)、24.3cm(昭和46年秋)(橋本正明)〕 大沼君子 新兵衛「思い出こけし」の型
〔右より 24.5cm(昭和41年1月思い出こけし初作、28.5cm(平成元年11月10日)、24.3cm(昭和46年秋)(橋本正明)〕  大沼君子 新兵衛「思い出こけし」の型

山歩きをして採取した山野草をアレンジして胴の花模様を描くことがあった。

〔右より 15.5cm 撫子、15.5cm、福美人、24.2cm、楓、15.5cm、藪柑子 (平成4年)(橋本正明)〕
〔右より 15.5cm 撫子、15.5cm、福美人、24.2cm、楓、15.5cm、藪柑子 (平成4年)(橋本正明)〕

大穴住宅の住まいの周りには、山で採取した多くの山野草が植えられていた。

大沼君子 平成13年9月
大沼君子 平成13年9月

〔伝統〕  鳴子系岩太郎系列

〔参考〕

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