高橋定助

高橋定助(たかはしさだすけ:1872~1966)

系統:鳴子系

師匠:横谷善作

弟子:中鉢久七/伊藤寅治

〔人物〕明治6年11日26日、宮城県桃生郡野蒜村(松島の北)の土木監督局工夫 手代木新吉、いをの子に生まれた。いをは鳴子の木地師横谷善作の三女である。
3歳のとき伯父横谷善治(善作長男)の養子となったが、8、9歳のとき養父善治が亡くなったので、母の姉なつの夫高橋慶治郎の養子となって、高橋姓となった。養父高橋慶次郎は沢口吾左衛門文書に名のある蒔絵師である。
明治22年17歳で横谷善作について足踏みロクロで木地を学んだ。横谷善作の家は、現在の鳴子駅前のまるぜんであり、善作は木地の名人であった。茶筒や重ね杯などの見事な遺作がまるぜんに残っていた。善作はこけしを作らなかったので、定助はこけしを見取り学問で習得、岩太郎を手本としたと言っていた。明治26年に中山平に移り、蛇の湯の近くに家を立てて独立、こけしを挽いた。こけしは中山平温泉の湯治客相手で売れ行きは良かったという。
明治28年23歳で実父新吉のいた岩手県黒沢尻や前沢へ行って河川工事を手伝った。明治33年28歳の時に中山平に帰り再び木地業に就いた。明治43年には大沼新兵衛や中鉢久七と中山平二つ森で椀木地を挽いた。明治43年7月の記録的な大水害の時には二つ森に流れ着いた材木を使って木地を挽いたという。水害の後さらに二つ森より奥に入った遠清水に移った。その後、木地の仕事から離れ、
鳴子新屋敷に移って山仕事に従事した。
昭和19年1月、鹿間時夫の訪問により昔を想い出して自挽きのこけしを作った。
昭和28年11月、当時鳴子病院にいた遠藤信夫や、こけし工人の大沼新兵衛に勧められて新兵衛の木地に描彩をしたが、これを契機に、昭和30年12月には高松の秋田亮の依頼で岡崎斉司木地に描彩し、以後大沼誓、大沼力、佐藤俊雄、早坂彰康、秋山忠市、小山今朝記、高橋泉二などの木地に次々と描彩を行なった。胴に描く模様も多様であった。その頃の作品の大部分は蒐集家からの依頼を大沼君子が仲介したものだった。
中山平時代の弟子に中鉢久七がおり、久七は大沼岩蔵の妹たきの婿となっている。中鉢新吾は久七、たきの三男である。久七のほかに伊藤寅治という弟子もいたようであるが、この人は大成せずに北海道で亡くなったという。
昭和41年10月7日老衰のため死亡。行年94歳。

高橋定助 昭和36年5月 撮影:小野洸

高橋定助 昭和36年5月 撮影:小野洸

左 大沼君子 右 高橋定助 昭和39年ころ

左 大沼君子 右 高橋定助 昭和39年ころ

〔作品〕 自挽きの作は鹿間コレクションにあった二本で肩に二本溝がある。
下掲はその一本で、頭は縦長でやや下膨れ、前髪はかなり上方描かれていて、戦後の他人木地に描いたものとはやや趣を異にする。


〔 22.0cm(昭和19年)(鹿間時夫旧蔵)〕

戦後の作はほとんど描彩のみでその木地は何人かの鳴子の工人が挽いた。木地の鑑別は困難である。重ね菊、枝ぎく(別ぎく)、よせぎく、糸ぎく、太なでしこ、細なでしこ、かえで、宝珠、銀杏、朝顔、松竹梅等の多様な描彩を楽しんで描いていたようである。養父が蒔絵師であったため、蒔絵の模様のイメージが身についていたようである。老齢のため筆は走らず、その結果超俗的で枯淡の風情があり、商品化されたこけしに飽きていた収集家をよろこばせた。
銀杏、朝顔、松竹梅は昭和33、4年ころから描き、他は若いころにも描いたと言っていた。菊やなでしこの名称は大沼君子の発案であったときく。蒔絵に描かれるような写生風の模様には他の工人とは異質な印象のものもあった。目鼻極度に小さく表情可憐で愛すべき物が多い。
戦後製作の14年間に相当大量に描いているが、その年代で作風の変化はあまりなかった。


〔 21.2cm(昭和34年)(高井佐寿)〕

最晩年に多く作った地蔵型には面白いものが多い。


〔右より 18.2cm(昭和39年)、30.8cm、15.0cm(昭和40年)(橋本正明)〕

系統〕鳴子系

〔参考〕

  • 西田峯吉:古鳴子時代の工人 高橋定助〈鳴子・こけし・工人〉(昭和39年10月)未来社
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