大沼誓(おおぬませい:1890~1960)
系統:鳴子系
師匠:高橋勘治/高橋亀三郎
弟子:大沼力
〔人物〕 明治23年12月25日宮城県玉造郡鳴子の大沼安太郎・とよの二男に生まれる。祖父は大沼勘五郎、沢口吾左衛門文書に塗師として記録されている人物である。父安太郎の舎弟安吉は大沼利右衛門の娘とみゑと結婚して利右衛門の養子となった。誓の兄勘太郎は高橋利四郎について木地を学んだことがある。
大沼誓は、鳴子高等小学校を1年で中退し、13歳より高橋勘治の弟子となって木地を学んだ。勘治は利右衛門の妻けさのの舎弟にあたる。誓は弟子の当時は、馬の尻がい玉、にしきごまなどを盛んに挽いたようだ。
その当時の勘治の作業場には6尺程の大車を付けたロクロがあって、誓と兄弟子だった大沼平内とで、その大車の取っ手を持って二人がかりで廻し、勘治が専ら木地を挽いたという。
弟子になった翌冬、烏川(加美郡宮崎村との境の山)に登って山小屋を作り泊りがけで何日も木地を挽く山仕事に加わった。14歳の誓には過酷すぎる仕事で、加えて腹も壊したので山から逃げ出してしまった。その後、勘治のところに戻れないので加美郡鹿野原に行って横木を中心に挽いたりした。
明治42年兵役に就き、明治44年に除隊後、鳴子に戻り高橋亀三郎のもとで玩具類を2年ほど挽いた。高亀では6寸のこけしを1日60本作るのが一人前とされたという。
その後、漆沢、鳴子、中山平等で7年間、茶櫃、盆などの板物を挽いた。
生来身体は丈夫な方ではなかったので、冬場の木地の山仕事はきつかったという。病を得て長期休業したこともあった。その後、硫黄鉱山に勤めながら少しづつ木地を挽いた。
妻りんとの間には、4人の男の子がいたが、長男、二男ともに2歳の頃亡くなり、三男は20歳の時満州で亡くなった。四男の力が戦後木地の弟子となって後を継いだ。
こけし工人として作品を写真とともに紹介したのは橘文策の〈こけしと作者〉が最初である。深沢要が昭和16年に、西田峯吉が昭和33年に誓を訪ねて聞き書きをとっている。
昭和15年ころ自宅にロクロを備え付けて、本格的のこけしの製作を再開した。
蒐集家の手に渡ったこけしは昭和15年以降のものが大部分であるが、子供の手に渡って玩具として使われたものや、キナキナ風の小寸たちこに描彩を施したものなど、稀に大正期と思われる誓のこけしがある。
昭和18年頃鉱山をやめて、木地専業となった。
戦後もこけしを作り続けたが、昭和35年12月8日鳴子新屋敷で亡くなった。行年71歳。
〔作品〕 昭和15年に自宅にロクロを取り付けてこけし製作を再開する以前のこけしは少ない。
〈こけし 美と系譜〉図版26に米浪庄弌蔵の2本が掲載されている。小寸のたちこは大正期のもの、頭はキナキナと動く。おそらく自挽きのものであろう。8寸の昭和12年作と言われるものは木地別人と思われる。
下に掲げる石井眞之助旧蔵の6寸5分は、子供が長くおもちゃとして遊んだもの、このこけしも鳴子の形態ながら、首はキナキナと揺れるように作られている。
〈こけし辞典〉には鈴木鼓堂旧蔵の大正期の大沼誓8寸5分が紹介されている。
昭和15年にロクロを据えてからは、自挽きのこけしを再び作るようになった。下の写真の、西田コレクション8寸、国府田蔵の尺、名和コレクション9寸5分はその典型で、高い肩にロクロ線が数本入るのが特徴であった。この高い肩に入る太い赤のロクロ線は強い印象を与える。
この時期の自挽きこけしは、木地の仕上げを荒く作り、濃い赤が深くしみたように残っているのも特徴的である。昭和16年以降は用材を吟味するようになり、仕上げにも気を配るようになったためか染料の滲みは少なくなる。
下掲写真の西田峯吉蔵品は、昭和41年1月に大沼力が誓型の復元をした時のモデルとなった。
〔24.2cm(昭和15年5月)(西田記念館)〕
〔右より 19.7cm(昭和15年)、28.2cm(昭和15年)(名和コレクション)〕
名和コレクションの右端、そして下の深沢コレクションの様に、やや胴上部が膨らみ、下部をやや絞った小寸のこけしもよく作った。
下掲写真の深沢コレクション蔵品は、昭和42年11月に大沼力が誓型の復元をした時のモデルとなった。
戦後も亡くなる少し前までこけし製作を続けた。
〔系統〕 鳴子系利右衛門系列 大沼誓は高橋勘治のもとでは、ほとんどこけしを学んでいない。高亀に入ってからこけしや玩具類は作ったようである。そういう意味からは高亀の直蔵系列とすべきかもしれないが、こけしの印象、体質は勘治の影響が強いように思われるので、従来から勘治の利右衛門系列に分類される。
後継者には四男の大沼力がいた。また力の二男秀則がいて誓の型を継承している。