大原正吉(おおはらしょうきち:1910~1982)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤寅治
弟子:
〔人物〕 明治43年2月25日宮城県刈田郡遠刈田新地佐藤寅治・もとの七男に生まれる。周治郎は伯父、直治、直助は叔父、佐藤護は兄にあたる。尋常小学校卒業後、大正12年13歳の頃より父寅治について木地を学んだ。当時、父寅治や兄の護は遠刈田温泉の北岡木工所で働いており、正吉も昭和元年からこの北岡木工所に入って働いた。当時の北岡木工所には佐藤直助、豊治、治平など多くの工人が働いていたが、殆どが横木の盆や茶櫃で、こけしは正吉や一つ年下の英次が専ら製作した。
昭和8年北岡木工所をやめて一時遠刈田を離れ、山形のひろえ屋で木管を挽いた。昭和9年5月に遠刈田に戻り再び北岡木工所で働いたが、昭和11年に中ノ沢の酒井正進雑貨木地店の職人となり、ここでこけしも盛んに作った。
昭和13年8月北海道の登別に移り、同地の漆原木細工工場の職人となって働いた。こけしや茶筒、玩具類を作った。昭和15年1月に独立し、佐藤木地細工工場を開業したが、同年8月に閉鎖、再び漆原木地細工工場で働いた。昭和16年に兵役召集に応じ満州に赴く、帰還後はミワ木工所で働いた。
昭和20年大原家を継ぐべく夫婦養子となって入籍、大原姓に変わった。登別駅前に自宅を構え、ロクロを設置して開業した。長く登別の土産物としての木地物を挽き、こけしや玩具を作り続けたが、昭和57年6月8日に北大付属病院登別分院にて肺気腫のため没した、行年73歳。
なお、昭和35年に甥の佐藤栄一(兄佐藤護の長男)が正吉の作業所の職人となり昭和37年まで働いていた。栄一は一時転業したが昭和47年より再び登別で木地業を再開した。
〔作品〕 正吉の名は〈木形子異報〉により紹介されたが、写真掲載は〈木形子談叢〉が最初である。 一側目で下に掲載した写真の深沢コレクション左のこけしに近いものが載っている。
橘文策は「歴史を誇る土地柄だけに、祖先の伝統と先輩の指導宜しきを得て数ある新進作者にも駄作を出すような者は見られない。中でも正吉は次の時代を背負って立つ注目に値する作者である。形態色彩共に生粋の新地系といって異存ないこけしであるが、頬はあくまで豊かで、太い眉、ハッキリした眼とミックスして、遠刈田のマンネリズムに異彩を添えている。荒いタッチでグングン描いて危なげがない、生気に充ちていて胸のすく様な感がする」と正吉のこけしに頗る高い評価を与えていた。
正吉の蒐集界への紹介は昭和10年の〈木形子談叢〉であるが、正吉のこけし製作は大正末期から始まっており、また現在では正末昭初の正吉作と確認できるこけしが残っている。 ここに示す写真は〈こけし襍記〉の図版8であり元村勲蔵品を木村有香が撮影したもの、〈こけし雑記〉では「作者不明、佐藤正吉か」としているが、全て正末昭初の正吉であろう。
下に掲載した写真中旧鈴木鼓堂蔵品右側6寸3分も〈こけし襍記〉の写真とほぼ同時期の作品である。〈古計志加々美〉図版右端6寸5分も鈴木鼓堂6寸3分とほぼ同趣である。
また左の旧鈴木鼓堂蔵品9寸3分や鈴木康郎蔵の右端8寸5分は、正末昭初に近接する作、昭和初年北岡工場時代の始めの頃と思われる。
大原正吉の年代変化は〈古計志加々美〉に詳しく、遠刈田時代、中ノ沢時代、北海道時代のそれぞれの作例を計5本出して解説している。
深沢コレクションの2本は、おそらく橘文策の蒐集時期に近く、北岡工場後半の頃であろう。
中ノ沢時代の作品は比較的多く残るが、緑のロクロ線を使ったものが多い、甘美系の周治郎系列にあって表情は剛直である。
〔右より 19.0cm(正末昭初)、28.0cm(昭和初期)(鈴木鼓堂旧蔵)〕
〔右より 25.3cm(昭和初期)遠刈田時代、21.4cm、15.3cm(昭和11年頃)中ノ沢時代(鈴木康郎)〕
〔右より 20.9cm、19.4cm(昭和10年頃)(深沢コレクション)〕
戦後も盛んに作ったが、頭がかなり角ばり、面描は細く硬筆となった。〈こけし辞典〉で鹿間時夫は戦後の作風の一変を嘆いて「風土が違うと伝統の中身が希釈されてしまう例である」と書いたが、その後戦前の本人型を復元したこけしは、彼の持ち味を再現出来ていた。下の写真は中ノ沢時代の復元作である。
〔21.2cm (昭和50年ころ)(目黒一三)〕 戦前本人作の復元
〔系統〕 遠刈田系周治郎系列