小幡末松

小幡末松(おばたすえまつ:1874~1931)

系統:土湯系

師匠:阿部熊治郎

弟子:小幡福松

〔人物〕 明治7年6月12日、福島県信夫郡土湯村字下ノ町19番地、松屋阿部吉弥、ヤヨ五男に生まれる(〈こけし辞典〉で母の名をヤマとしてあるのはヤヨの誤り)。兄に、熊治郎、太郎吉、松吉、常松がいる。松屋は代々の木地業で、父吉弥も木地を挽いたが、明治19年3月末松13歳のときに亡くなったので木地は主に長兄の熊治郎から習った。熊治郎は、明治18年4月静岡県出身の膽澤為次郎より一人挽きの足踏みロクロを学んでいたので、末松の修業ははじめから足踏みであったと思われる。
明治31年信夫郡福島町福島通の小幡文助・センの長女ヨフと結婚し、小幡家の婿養子となった。末松は土湯からロクロを持参して、福島でも木地を挽いた。福島でこけしも作ったという。明治31年12月に長男福松が誕生、その下に善作、徳松、秀松、儀松らの男子をもうけた。木地は長男の福松が継いだ。
昭和6年11月30日没、行年58歳。

〔作品〕 〈こけし辞典〉の小幡末松と福松兄弟の執筆は中屋惣舜であり、この執筆のために福島を訪問して福松の遺族に会っている。またその後も継続して小幡一家の調査を進めて、昭和48年と49年には小幡秀松から聞書をとっている。それらの調査結果は、昭和48年1月の「井の頭こけし研究会」の席上で発表、また昭和49年11月の〈木の花・3〉「小幡秀松のこけし」で整理公表された。
〈こけし辞典〉では「末松のこけしは未確認」と書いた中屋惣舜は、その後の小幡秀松の証言をもとに〈古計志加々美〉の図版19小幡福松名義を末松の作と鑑定した。

〈古計志加々美〉掲載(第19図)の伝小幡末松 18.2cm
〈古計志加々美〉掲載(第19図)の伝小幡末松 18.2cm

秀松はこの〈古計志加々美〉の図版を見て、「木地の古い形、面描から見て大正4、5年頃の作であろう。ただし面描は写真のため確実とはいえないが、どうも末松らしく思われる。」と語ったという。
確かに、面描は以後の福松名義のものとは異なる。前髪小さく、目は鯨目に近く、湊屋の古いものにも似る。胴は幅広のロクロ模様、胴裾は面取りで仕上がっている。
小幡福松名義で秀松の描彩とされるものには幾分この作風を伝えた部分がある。

この〈古計志加々美〉の小幡末松と思われるこけしの出品者、所蔵者ははっきりしない。現存しているかどうかも不明である。

系統〕 土湯系松屋系列

 

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