山谷敏一

山谷敏一(やまやとしかず:1935~2014)

系統:津軽系

師匠:山谷権三郎

弟子:

〔人物〕  昭和10年5月29日、青森県温湯の木地業山谷権三郎・ハルの6人兄弟の末子に生まれる。山形第一中学校在学中より家業である木地業を手伝った。昭和26年中学卒業後は本格的に兄の清と木地挽きを行い、鳴り独楽、ズグリ、こけし等木地玩具を中心に製作した。
昭和20年代の後半より出稼ぎで、東京、神奈川で働き、帰郷は盆・正月だけという生活を送った。昭和40年30歳のとき、宇野時枝と結婚して温湯字鶴泉で独立、二子をもうけた。
高齢になり出稼ぎを辞めてからは、黒石市青山に住み、主に病院の清掃等の仕事をした。
平成12年12月に北山盛治のロクロを使い約50年振りにこけしの製作を行った。同時にズグリも作ったが、鉋の切れの良いブランクを感じさせない作品であった。平成22年に脳梗塞を患い療養を続けたが、平成26年8月8日に没した。行年80歳。
 義理の母である山谷きよと一緒に出稼ぎに行くことも多かったと生前語っていた。

山谷敏一  平成12年12月 撮影:山谷レイ
山谷敏一 平成12年12月 撮影:山谷レイ

 〔作品〕  若い頃の作品は未確認。昭和10年代の半ば以降、山谷権三郎名義のこけしは、後妻のきよの描彩が多く、敏一も木地下だけだった可能性が大きい。
復活のこけしは、平成12年12月、平成13年1月、平成13年6月の3回に分けて作られたが、山谷直系の戦前の味を残す素朴な作風であった。その後も蒐集家は製作を依頼したが、ろくろの設備を持っていなかった事と、かなり訛りがきつく蒐集家とのコミュニケーションが難しかったことなどから継続した製作はできなかった。尚、〈こけし辞典〉の山谷権三郎の項目に敏一の名前は出ている。文献初出は〈こけし山河・227〉(平成19年11月)である。

〔右より 18.0cm、21.5cm(平成12年12月)、24.5cm、18.5cm(平成13年1月)、22.5cm、13.5cm(平成13年6月)(中根巌)〕
〔右より 18.0cm、21.5cm(平成12年12月)、24.5cm、18.5cm(平成13年1月)、22.5cm、13.5cm(平成13年6月)(中根巌)〕

系統〕  津軽系温湯亜系

 

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