藤井梅吉

藤井梅吉(ふじいうめきち:1898~1936)

系統:南部系

師匠:小松留三郎/藤井幸左衛門/照井音治

弟子:

〔人物〕明治31年6月5日、岩手県稗貫郡湯口村鉛の藤井梅蔵、トヨの次男に生まる。明治40年10歳のころ、藤友商店(藤友旅館)の職人をしていた小松留三郎や大沼岩蔵の弟子藤井幸左衛門より木地の挽き方を習った。明治45年鉛の藤井万作の養子となる。このころ、鉛で働いていた照井音治について手直しを受け、こけしの作り方も教わった。〈日本郷土玩具・東の部〉により工人として紹介された。昭和11年3月20日、鉛にて没す、行年39歳。

藤井梅吉 昭和7年
藤井梅吉 昭和7年 撮影:橘文策

〔作品〕一般に藤井梅吉といわれているこけしは、鳴子系の形態に遠刈田系の描彩をほどこしているものが多い。下掲図版は武井武雄の〈愛蔵図譜〉の鉛こけし。右二本が藤井梅吉の作。左端の作者不詳は大沢の佐々木要吉ではないかとされるもの。梅吉の二本は武井武雄が昭和3年秋に注文し送ってもらったものであるが、局留めにした郵便局が間違っていて返送され、再送されたものが翌4年2月にようやく武井武雄の手許に届いたという曰くつきのこけし。梅吉の頭頂は黒の蛇ノ目が一般的であるが、こうした手絡は稀少である。


〈愛蔵図譜〉鉛こけし図版

下掲は天江コレクションの6寸7分であるが、上掲の〈愛蔵図譜〉とほぼ同時期同趣の作品。表情は厳しく、緊張感がある。胴の葉は紫で描かれている。


〔20.3cm(昭和3年)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲の左端は、武井武雄図版の中央のものと同趣、胴は中央がくびれ、細いロクロ線の模様がある。くびれは図版左端の作者不詳(要吉)と共通で南部系の古い形態の一様式だったと思われる。後年になって梅吉は大寸で白胴のくびれも作るようになったが、細めの胴にロクロ線を加えたものは昭和3年のこの時期だけであろう。


〔右より 8.8cm(昭和7年頃)、14.2cm(昭和3年)(藤田康城)〕

下掲のように大寸で、胴は無彩の作品も作った。肩のある鳴子式の形態の胴を、南部式に無彩のままに残している。


〔37.9cm(昭和5年頃)(鈴木鼓堂旧蔵)〕

下掲は昭和5~7年の標準的な藤井梅吉の作品、頭頂は黒の蛇ノ目で、胴紋様は遠刈田の重ね菊から変化した独特の様式となっている。葉の色は緑。表情も静謐で気品がある。


〔右より 31.6cm(昭和7年頃)、23.9cm(昭和5年頃)(鈴木康郎)〕

下掲右端は昭和9年頃の作、面描はやや大振りになり、やや気品が薄れてきている。
左端のような南部のキナキナも製作した。このキナキナの胴底には鉛という墨書がある。


〔右より 23.6cm(昭和9年)(橋本正明)、8.6cm(昭和7年頃)(鈴木康郎)〕

照井音治を継承しながら藤井幸左衛門経由の鳴子の様式も残して、独自のスタイルを確立した。若くしてなくなったのが惜しまれる工人である。

系統〕南部系

佐藤誠、高橋金三等が藤井梅吉型を復元した。

〔参考〕

  • 伝藤井梅吉とされた倣製品

 
伝藤井梅吉 倣製品 〈こけし・人・風土〉掲載のもの

〈こけし這子の話〉や〈愛蔵図譜〉に鉛として紹介された作者不詳(今では佐々木要吉かとされる)は、伝藤井梅吉として数種の倣製品が作られた。上掲右端は花巻の長寿庵で売られていたもの、左端は東京の三五屋が小島正に作らせたものであり、またこのほかにも吾八が小島正に作らせた二本組みもある。いずれも藤井梅吉ではない。

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