小椋正治(おぐらしょうじ:1892~1945)
系統:木地山系
師匠:小椋庄太郎
弟子:小椋正吾
〔人物〕 明治25年6月28日、秋田県皆瀬木地山の小椋庄太郎・リンの二男に生まれる。父庄太郎(慶応元年1月16日生)は小椋徳右衛門の二男で、カネ、久四郎、石蔵の兄にあたる。庄太郎は、一時稲庭村に養子に出たが明治23年に木地山に戻り、川連大館出身の佐藤善太郎長女リンと結婚して木地山で庄之助、正治、ヤシ、サタの二男二女をもうけた。明治32年10月に家族で山を下りて、川連村大館に分家した。
正治は川連で父庄太郎より木地の技術を学んだ。
大正8年8月ナオと結婚、二男二女をもうけたが、ナオは昭和7年に亡くなった。
昭和7年橘文策の川連訪問が、正治のこけし製作開始の大きなきっかけになったと思われる。橘文策の「こけし紀行」〈こけしざんまい〉には、宿に集まった小椋泰一郎、啓太郎、亀重、兼一、正治、柴田鉄蔵、樋渡治一と互いに熱く語り合う様子が記されている。
ただし、正治が庄太郎から木地山こけしの製作を継承していたかどうかは不明である。
昭和9年に木地山の小椋久四郎、キクの長女シエノと再婚、正吾、徳男、啓子、正松、末信の四男一女をもうけたが、正松は生後すぐに亡くなった。三男正吾はシエノとの間の第一子である。
昭和20年10月10日に川連村大館で没す、行年68歳。
〔作品〕 橘文策著の〈こけしと作者〉で始めて紹介された。そこでは「ホウを使用しているが、イタヤ材の方がいい、顔や胴模様に努力の跡は認められるが、一歩手前の感がある。近頃ベレー帽をかぶったのや、長い睫毛のあるのや、模様変わり等十指に余る新作をだしている。こんなものをもって万一時代的なものと考えているなら一度考え直す必要がある。」とかなり批判的な紹介であった。
〈鴻・6〉ではさらに追求して、正治は木地のみで描彩しないことを突き止め、また特製・並製によっても描彩者が違うとした。特製の描彩は蒔絵の賃描師の古関菊一であるが、並製は不明という。
橘文策の言う新趣向の描彩とは、こうした描彩者の試行の過程であったかもしれない。
ここに掲載の写真右端は、橘文策旧蔵のもの、〈こけしと作者〉〈こけし人形図集〉掲載のものと同時期の作であろう。木地山の久四郎などを、この描彩者はモデルとしていたのだろうか。
左端は昭和15年頃の作と思われる。確証はないが、おそらく右端の方が特製と呼ばれたものではないかと思われる。
〔右より 31.2cm(昭和7年頃)、19.2cm(昭和15年頃)(鈴木康郎)〕
下掲の尺も上掲左端と同じ時期の作、正治として現存するこけしはこの様式のものが多い。
この胴模様を「菊水」と呼ぶものもいる。
〔系統〕 木地山系 正治三男の正吾が昭和48年頃よりこけし製作を開始したが、平成4年に59歳で没した。現在後継者はいない。