桜井万之丞(さくらいまんのじょう:1891~1969)
系統:鳴子系
師匠:大沼岩蔵
弟子:桜井昭二
〔人物〕 明治24年4月5日、鳴子湯元大沼甚三郎・ときの四男に生まる。鳴子尋常高等小学校卒業後、明治38年15歳より中山平の長兄大沼岩蔵について木地を習得した。秋山忠は中山平時代の兄弟子である。明治41年18歳まで3年間岩蔵についた後、鳴子へ帰り独立した。その後、鉛で一時期働き、明治44年21歳のとき、小松留三郎を頼って上ノ山で2年間働き、さらに蔵王高湯の能登屋で2年間職人をした。蔵王高温時代には横挽き工人として珍しがられ、また一日終わるとカンナ刃先を折って、翌日新しく作る万之丞のやり方が周囲の関心を集めた話は有名である。その後山形に降りて、七日町字柳町の岡崎栄治郎の職人となった。この栄治郎の工場の隣に床屋があり、その一人娘コウと相思相愛の仲になった。大正2年、コウと結ばれたが、コウは桜井吉治の一人娘であったので婿養子となった。姓は戸籍表記では櫻井。妻の実家から栄治郎方の仕事場に通った。コウの両親の期待は万之丞が床屋の跡を継ぐことだったが、万之丞には床屋は性に会わなかったため、大正4年25歳のとき、意を決して単身鳴子へ帰ってしまった。コウは生まれたばかりの女の子を背負い、万之丞の後を追って鳴子へ移った。鳴子では約3年間こけしその他の玩具を挽いたが、後に大物挽きを主体とするようになった。大正9年ころには仙台の東北漆器㈱(東八番町)や、米沢の山三会社の職人をしたこともある。大正12年鳴子木地講習所に講師大沼新兵衛の助手として勤めた。同時に鳴子物産会社の職人としても働いた。昭和2年長男昭二が誕生、また昭和7年には二男実が生まれた。昭和8年ころからは岡崎斉吉の工場を借りて大物を挽いた。〈こけしと作者〉でこけし界に紹介され、広く知られるようになった。終戦直後には尿前の工場で横木専門に働き、昭和25年ころより土産店「さくらい」の傍で長男昭二とともにこけしを作るようになった。高橋武蔵、高橋盛、岡崎斉等とともに戦後の鳴子こけしを支えた功績は大きい。昭和44年3月26日鳴子没、行年79歳。
〔作品〕 川崎巨泉の人魚洞文庫(大阪府立中之島図書館)には巨泉の玩具絵が収蔵されており、それがWeb上で検索できるので大変便利である。→ 人魚洞文庫データベース
この中に「鳴子町湯元桜井萬之丞作と云ふ、大正十年頃大鰐と云ひ入手せしもの 」という注記がついたこけし絵一枚がある。当初は大鰐のこけしとして入手したものであったが、米浪庄弌の指摘で桜井万之丞作とわかったという意味である。そしてこれは、米浪庄弌の〈こけし人形図集〉に載った万之丞とも全く同一形態である。この米浪蔵品は、巨泉のものと同時期のもの、あるいは親交のあった川崎巨泉から譲り受けたものかもしれない。現存する万之丞の最も古い部類の1本であり、古鳴子の風韻をとどめた魅力ある作品である。
〔18.0cm(大正10年ころ)(鈴木康郎)〕
〈こけし人形図集〉に掲載された米浪庄弌旧蔵品
蒐集家の活動が本格的に始まった昭和初年ころは既に横木中心の大物挽きを専ら行っていたので、余暇に作るこけしの製作数は必ずしも多くはない。 〈こけしと作者〉でこけし作者として紹介されたが、小物はほとんど挽かなかったので、蒐集家の注文には、秋山忠の木地や、大沼健三郎の木地に桜井万之丞が描彩して応えることが多かった。〈鴻・第八号〉では万之丞の作品の木地の鑑別について議論している.
〔右より 16.9cm、23.6cm、20.28cm(昭和14年頃)(西田記念館)〕 木地は秋山忠
〔右より 25.5cm、21.6cm(昭和15年頃)(鹿間時夫旧蔵)〕本人木地
本人木地のこけしは数は多くはないがある程度は残っている。昭和15年ころであっても本人木地には大正期の形態の面影が幾分残っていて、量感に富み、溌剌とした清新な作風であった。
〔右より 30.5cm(昭和24年)、24.5cm(昭和35年)(橋本正明)〕
戦後になってこけし製作に本腰を入れるようになると、ほとんど自挽きの木地に描彩するようになった。戦後最初のものは上図右端のように肩の著しく高い姿のものであった。 昭和30年代になると肩、胴上下にロクロ線を入れて華やかになり、頭もやや横に広がった大きめのものになる。この頃が戦後の完成期であろう。 昭和41年頃より徐々に作品数は減少したが、亡くなるまではほとんど自分で木地は挽き続けていた。
〔伝統〕 鳴子系岩太郎系列 長男昭二が万之丞型を作っていた。孫の昭寛も万之丞型を作る。