小椋千代五郎(おぐらちよごろう:1866~1945)
系統:独立系
師匠:小椋甚吾
弟子:小椋甚九郎
〔人物〕慶応2年6月25日、福島県北会津郡闇川村(旧青木組)の木地業小椋甚吾、ツルの長男に生まれた。本名(諱)のほかにあざな(字)も持っていて祖父織江は包教、父の甚吾は包章、千代五郎は工章と言ったという。
祖父小椋織江(包教)は享和2年10月9日、信州下伊那谷和合村に生まれ育ったが、父の代になり、文化7年9月会津藩主松平容衆公の招聘で南会津郡御殿料立岩村の山林(御蔵人河原田家の領内)を開拓し、若松漆器の木地下を挽いた。また漆器木地改良師として会津木地師300人の取締まり役もかねた会津藩御抱え木地師でもあった。安政6年北会津郡闇川村に移住、明治維新まで働いた。明治28年5月26日に没した。
父の甚吾(包章)は天保3年1月8日立岩郷戸倉沢の生まれ、明治43年8月6日に没した。
千代五郎は父の甚吾について木地を習得し、明治17年に小谷村の鈴木タツと結婚、八十八郎、サク、キヨ、甚九郎をもうけた。明治22年一家は耶麻郡岩月村沼原新駅(人田付字西ノ入)に移り、若松や喜多方の漆器木地下を挽いた。
大正14年千代五郎は病気となり、活動不能となったので、昭和元年喜多方市本町の小野寺氏経営の木工場で木地監督として息子甚九郎と共に働いた。
明治20年ころまで闇川村時代は二人挽きロクロを用いていたし、小椋家には川口貫一郎の訪問当時昭和10年11月)は相当数の手挽きロクロがあったという。福井、石川、愛知三県の産業調査員になったりした、昭和12年川口貫一郎にこけし作者として紹介され、〈こけしと作者〉や〈古計志加々美〉でもとりあげられた。
昭和20年10月28日喜多方にて没、行年80歳。
〔作品〕〈古計志加々美〉は彼の作を昭和9年前後の第一期、14年ころの第二期、15年以降の第三期に分類している。
第一期は福助形、マント形、エナメル塗など変化と奇想に富み、水絵具で単純な彩色を施し、唐子頭等を描き、古調あふれた面相で、草書体の鑑賞に堪える作を作った。第二期には依然として水絵具を使い、花模様等も加え、ロクロ線は多彩となった。第三期は動力挽きで四色の染料を用い、波挽き、線刻、糸目等の技巧をこらし、面描は千代五郎で胴は甚九郎という合作が多かった。
一貫して男女の別をしたこけしを作り、古のナタワリ人形にならったと言っていた。また明治維新前後祖父が岩代こけしとして時々作っていたのを想い出して作ったともされている。
〔右より 17.3cm、14.2cm(昭和9年)(植木昭夫)〕第一期
〔右より 173cm、21.2cm(昭和9年)(高橋五郎)〕
〔伝統〕独立系。川口貫一郎は会津系と呼んでいた。
荒川洋一が千代五郎型を復元したことがある。
〔参考〕また。千代五郎は下掲の福助のようなチョンマゲ頭をした怪作など多様なこけしも作った。