喜多方の小椋千代五郎の祖父。
小椋織江の代の寛政年間には一家は信州下伊那郡飯田在にあったが、会津藩主松平容衆公の招聘で、文化7年9月に一家は南会津郡御殿料立岩村に移り、山林(御蔵人河原田家の領内)を開拓して会津若松漆器の木地下を挽いた。織江の息子の甚吾も木地を挽き、会津ではすでに一家の働き手となっていた。甚吾の長男が千代五郎である。
織江は明治維新頃まで生存していて、岩代こけしという物を作っていたという。千代五郎のこけしはそれを思い出して作ったものだという伝承もあるが、その詳細、真偽は不明である。