海谷吉右衛門

海谷吉右衛門(かいやきちえもん:1905~1985)

系統:独立系

師匠:海谷善蔵

弟子:

〔人物〕 明治38年9月10日、青根の海谷周蔵、きくよの次男に生まる。長兄は周松。父周蔵は若くして没したので、母きくよは周蔵の弟の海谷善蔵と再婚した。12歳で青根尋常小学校を卒業するとまもなく一家は仙台市北材木町に移り、吉右衛門はここで義父善蔵より木地を学んだ。その後、仙台市定禅寺町、肴町などを転々とし木地業を続けた。昭和4年、定禅寺時代に義父善蔵は没した。
昭和12年、盛岡の駒井友次郎三男国雄を養子とした。吉右衛門をこけし作者として最初に紹介したのは橘文策の〈 木形子異報〉であり、〈木形子〉で写真紹介された。戦後は仙台市一番町1-13-28に移り、その地で亡くなるまで木地業を続けた。
昭和60年4月20日没、行年81歳。
鈴木清、菅野実などに木地挽きを教えたが、こけしの伝承はなされていない。


海谷吉右衛門の家の跡に建つ海谷ビル
(仙台市一番町1-13-28)

〔作品〕下掲の橘文策旧蔵は〈こけしと作者〉に海谷吉右衛門旧作として紹介されたもの。描彩は鈴木庸吉である。あるいは木地のみが海谷吉右衛門であったかも知れない。こけしの注文を受けた吉右衛門が、同じ仙台にいて宮城県工業試験場の講師をしていた鈴木庸吉に描彩を依頼した可能性がある。胴模様は鳴子の菊や楓を基調として描かれている。

〔22.4cm(昭和7年頃)(鈴木康郎)〕橘文策旧蔵 描彩は鈴木庸吉
〔22.4cm(昭和7年頃)(鈴木康郎)〕橘文策旧蔵 描彩は鈴木庸吉

下掲の三枚の写真はいづれも昭和12年頃の作で、こちらは描彩も吉右衛門であろう。戦前の代表的な作例である。12歳で青根を離れた吉右衛門には、青根本来の様式は記憶に残っていなかったので、図案は主に庸吉描彩に基づいて吉右衛門がモダン化したものと思われる。


〔右より 23.0cm、27.3cm(昭和12年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション


〔12.1cm(昭和12年)(庄子勝徳)〕


〔 29.7cm(昭和12年)(高井佐寿)〕

戦後はかなり新型化した意匠になり、大きな髷をつけて黒を貴重としたロクロ線の胴模様のこけしを作っていた。
下掲は晩年に、兄周松の戦前の型を復元したもの。ただし周松が作ったこの型も、どういう伝承に基づくのか判然としない。


〔24.5cm(昭和56年6月)(平井敏雄旧蔵)〕海谷周松型

系統〕独立系。仙台独立型。 木地の系譜から遠刈田系に分類される場合が多いが、こけしの様式としては必ずしも遠刈田の特徴が顕著ではない。青根で働いたことのある義父海谷善蔵のこけしも未確認で明確ではなく、吉右衛門が青根の遠刈田系こけしを継承した痕跡も確認できない。仙台に来てから鈴木庸吉など接触した工人の作を参考にして完成させた独立型であろう。
海谷吉右衛門型、海谷周松型は仙台の加納陽平が復元している。

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