西山徳二(にしやまとくじ:1916~1941)
系統:土湯系
師匠:阿部新次郎
弟子:
〔人物〕 大正5年5月8日福島県信夫郡土湯の農業西山源助、アキの二男に生まれる。七男四女の兄弟姉妹がいた。後にこけしも作った西山敬三は次弟三男である。14歳で荒井村の尋常高等小学校を卒業後、実家の農業を手伝い、また炭焼きなどをする傍ら、土湯の阿部新次郎について木地を学んだ。佐久間弥の指導も受けたというが詳細は分からない。昭和5年15歳ころよりこけしを作り、新次郎の店に並べた。大阪の郷玩店テルヤの主人が昭和11年頃おそらく新次郎の店でやや古びた売れ残りのこけしをみかん箱一パイ求めて大阪に送り、蒐集家に分けたがその中に初作に近い徳二も多く含まれていたらしい〈教室だより・14〉。
やがて徳二は、自家にロクロを据えてこけしや玩具を作るようになった。二男ではあったが、故あって家督を相続することになった。
昭和12年秋深沢要が訪問、昭和13年には橘文策の〈木形子・1〉で写真とともに紹介された。 深沢要は、〈こけしの微笑〉に「徳二のこけしはこれからだ。頭と胴の形態にもう少しふくらみがつき、描彩の固さが改まるといいものになるだろう。若い彼が炭焼きに従事して挽き物の才能を伸ばし得ないのは惜しいことである。」と書いた。
昭和14年秋に応召、中支派遣軍を経て、湖北にわたり、昭和16年8月25日湖北省宗山県羅漢寺で戦死した。漢水を渡河し羅漢寺に上陸したときに頭部を銃撃されたという。〈鴻・14〉には菅井幸雄陸軍中尉による戦死状況の詳細な報告が掲載されている。行年26歳であった。
家督は弟七男の勇三が継いだ。
〔作品〕 下掲4本は大阪の蒐集家から出たものと思われ、おそらくテルヤ経由の初作に近い作品であろう。15歳頃の作であるが、細身のフォルムに硬筆の面描は無駄が無く、既に一つのスタイルを作っていた。この習作時期の作を徳二の最も特徴の出た代表作と評価する蒐集家は多い。
〔右より 21.5cm、21.2cm(昭和5年頃)(鈴木康郎)米浪庄弌旧蔵品、21.5cm(昭和5年頃)(鈴木康郎)、21.4((昭和5年頃)(国府田恵一)〕
下掲は深沢コレクションの徳二作であるが、左端は新次郎の弟子時代で、新次郎の店に並べられたものという。テルヤ頒布のものに近い。
〈木形子・1〉には左端に近い作が掲載され、「西山徳二は近時紹介された作者、年二十を過ぎたばかりで、こけしにも他の作者に見られない若々しさがある。土湯には珍しい長い頭を持ち、胴のロクロ模様の下端には黒線を配して、全体を引き締めた特技は偉とするに足る。」と橘文策はかなり高い評価を与えていた。
〔右より 26.7cm(昭和7年頃)、24.8cm(昭和13年ころ)、25.1cm(昭和12年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
下掲2本も深沢蒐集品左端とほぼ同時期で昭和12年頃の作。胴下端には墨の線が入る。
〔右より 16.8cm(昭和12年頃)(鈴木康郎)、24.0cm(昭和12年頃))(鈴木康郎)野々垣勇吉旧蔵〕
昭和13年頃になると細長かった頭が、やや丸みを帯びる。深沢要が「頭と胴の形態にもう少しふくらみがつくといい。」と言ったためと思われる。
〔右より 17.8cm(昭和13年頃)(田村弘一)、27.5cm(昭和13年頃)(国府田恵一)〕
出征前の作品は皆、頭部、胴部がさらに丸みを帯びるようになった。やや徳二の個性が希薄になった感があった。蒐集家の助言が作者の持ち味を失わせる場合のあることを示す一つの警鐘でもある。
徳二戦死の後は、この型は長く絶えていたが、昭和50年頃より渡辺鉄男により復元されるようになった。
〔系統〕 土湯系松屋系列
〔参考〕