菊地孝太郎

菊地孝太郎(きくちこうたろう:1895~1992)

系統:遠刈田系

師匠:小原直治

弟子:菊地孝治/菊地正/菊地啓

〔人物〕明治28年1月29日、山形県に生まる。大宮儀七、ユキの子。6歳のとき青根の木地業菊地茂平、きよの養子となった。義父の茂平は中年になってから青根の佐藤久吉の弟子となり、茶筒、盆などを挽いた工人であった。
明治40年小学校卒業と同時に13歳で小原直治について木地修業を始めた。兄弟弟子に同い年の大沼由蔵がいた。二年間こけしの木地下を挽いて、師匠の直治が描彩していたが、明治45年18歳で年期があけたので、自家にロクロを設置し、製品を小田、横山、須賀各商店に卸した。こけしは直治風に描いたが、あまり売れぬので専ら盆類を挽き、北岡商店に卸していたが遠刈田より安くしないと引き取ってくれなかったので生活は楽ではなかった。大正2年歩兵第29連隊に入営した。大正3年に東京で開催された大正博覧会に茶盆、茶卓、菓子入などを出品している。大正7年に柴田郡村田町の相原かねと結婚、孝治、正、秀夫、栄子、末治、昭夫、啓等九男三女をもうけた。
昭和7年、佐藤菊治とともに大工や櫛屋と合同で青根木工組合を結成、共同作業所で木炭ガスにより駆動する動力ロクロ二台、帯鋸、糸鋸、丸鋸各一台で仕事をしたが事業はうまくいかず、3年間で解散した。不況のため不本意ながら木地業を断念して、昭和13年豆腐屋に転業した。
息子の孝治、正は、父について木地挽を学んだが、まもなく転業した。長男孝治は鉄道員になった。
戦後、昭和30年を過ぎてから木地業を再開し、再びこけしも作るようになった。一説には戦後の孝太郎のこけしの木地は、息子の正が挽いていて、孝太郎は描彩のみであったとも言う。昭和31年に菅野新一が孝太郎を訪ねたところ、孝太郎は「今更ロクロを踏む気にはなれない」と語っていた〈こけし手帖・13〉。息子の啓は昭和44年より木地挽の修業を始め、父孝太郎こけしの木地も挽いていたらしい。啓自身のこけしも製作したが、昭和61年11月5日に父孝太郎に先立って没した。
晩年の孝太郎は口数の少ない、物静かな老人であった。平成4年11月24日に没した、行年98歳。

菊地孝太郎 山田猷撮影

菊地孝太郎 山田猷撮影

菊地孝太郎 昭和43年

〔作品〕小原直治の弟子であった時代の作品は残っていない。
下掲はらっここれくしょんの遠刈田不明こけしであるが、これが大正期菊地孝太郎だという説もあった。ただ目や眉の鋭角的筆法から見ると、その後の孝太郎とは大分距離がある。戦前の孝太郎はかなり大寸にも三段で重ね菊を描いているが、それに対して比較的小さい6寸9分のこのこけしには四段の重ね菊が描かれている。孝太郎の可能性は少ないように思われる。


遠刈田不明 20.9cm(大正後期)(三春町歴史民俗資料館)〕 らっここれくしょん

大正期の菊地孝太郎作は天江コレクションに、天江氏自身が大正末期に青根で求めたという6寸がある。


〔10.2cm(大正末期)(高橋五郎)〕天江コレクション

作者名菊地孝太郎として蒐集家の手に渡るのは、下掲写真の〈日本郷土玩具・東の部〉に取り上げられた以降のものである。


右:菊地孝太郎 左:佐藤菊治 〈日本郷土玩具東の部〉

下掲は平成26年のネットオークションに出された菊地孝太郎であるが、〈日本郷土玩具・東の部〉の作と前後する時期の作品と思われる。この時期は二側目の面描が多い。胴は三段の重ね菊を描いている。

昭和初期の菊地孝太郎(峰村愼吾旧蔵)

戦前のこけしは昭和13年に豆腐屋に転業するまでの間、あまり大きな変化はないが、昭和一桁代後半から一側目の童顔風の面描を描いたものが多い。


〔右より 15.5cm、18.0cm(昭和7~8年頃)、14.5cm(昭和5年ころ)(鈴木康郎)〕


〔右より 24.4cm、11.9cm(昭和10年)(矢内謙次旧蔵)〕


〔 21.2cm(昭和10年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

昭和11年頃から目の湾曲が大きくなる。下掲中央のように時に瞳にまつげを添えた描彩もあった。〈蔵王東のきぼこ〉に孝太郎の描彩版画が掲載されているが、それにもまつげが加えられている。


〔右より 21.0cm、(国府田恵一)、25.3cm、17.8cm(鈴木康郎)(昭和11年頃)〕

昭和10年に青根木工組合を解散して米穀商に転じた佐藤菊治への注文に対して、孝太郎が代わりにこけしを製作して対応していた時期があるようで、下掲写真のように菊治名義で残されている作品もある。これらは殆どが割れ鼻になっている。


〔右より 18.5cm(昭和11年)(国府田恵一)、21.0cm(昭和11年)(鈴木康郎)〕 
いづれも佐藤菊治名義

戦後昭和30年代以降にこけし作りを再開したときの作風は下掲写真のようなものであった。昭和40年代はやや面長になるが、基本的にはこのような作風である。鹿間時夫は「瞳の両端著しく垂れ下がり、ユーモラスな情味を出していた。」と評し、この描法を「しだれ柳式面描」と呼んだ。
戦後の菊地孝太郎の本人型は、大部分がこの筆法の作品である。


〔 24.0cm(昭和38年)(高井佐寿)

昭和40年代に入って、当時都立家政にあったこけし店たつみの店主森亮介は盛んに青根の菊治に、本人古作の復元を依頼していたが、その折に同じ青根にいた菊地孝太郎にも自身古作の復元を依頼した。下掲写真の二本はその時の戦前作の復元であるが、「しだれ柳式面描」から脱却した古風な作品となった。

 
〔右より 20.1cm、12.1cm(昭和41年5月)(橋本正明)〕 たつみ頒布

戦後は主に息子の正や啓の木地に描彩のみを行っていた。昭和61年に啓が亡くなってからは殆どこけしの製作を行わなかった。

〔伝統〕遠刈田系周治郎系列

〔参考〕

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