斎藤源七(さいとうげんしち:1912~1950)
系統:蔵王高湯系
師匠:斎藤源吉
弟子:
〔人物〕明治45年1月1日、山形県蔵王高湯の木地業斎藤源吉・しいの長男に生まれる。昭和元年堀田村第三尋常小学校卒業と共に父につき木地の修業を始めた。土産物店緑屋の経営も手伝っていたために多忙でなかなか木地挽きに専心できなかった。
昭和13年〈こけしの微笑〉、同14年に〈こけしと作者〉で紹介された。昭和15年前後第一回こけしブームのころは、能登屋の岡崎嘉平治と共に蔵王高湯の若手作者として並立していた。
緑屋経営のため製作数は少なかったが、こけしの製作は少しづつ行っており、昭和17年には動力ロクロも設置した。橋本カ蔵は兄弟弟子である。
昭和25年8月9日病没、行年39歳。源七の長男崇広が晩年の斎藤源吉よりこけし製作を習って、緑屋のこけしを継いでいる。ただ製作数は多くはない。
〔作品〕昭和12年頃から昭和17年頃までの作品が知られている。作り始めの頃は源七木地に源吉が描彩しており、その作品が源七として蒐集家の手に渡っている可能性もある。
オカッパ(黒頭)のこけしの場合は、源吉、源七、力蔵でそれぞれ髪の分け方に特徴があり、それで鑑別できるといわれている。源七のオカッパは中央で左右に分けるように描かれる。
らっここれくしょんには昭和12年作という源七名義があるが、オカッパの分けは無く、源吉描彩である可能性が高い。
〔右より 12.3cm(国府田恵一)、10.7cm(田村)、15.0cm(目黒一三)(昭和12年頃)〕
源七の作風は、父源吉の作風を忠実に継承したものであったが、鹿間時夫は「性格の差か、表情特に目にかなりの差があり、源吉よりは甘美である」「源吉の目がどちらかといえば剛直に近い瞳の比較的小さいのに比し、瞳線三日月形に強く曲がり、瞳比較的大きく剛直姓は見られない」と評していた。確かに源七の表情は、溌剌として若々しさの感じられるものであった。
製作期間は長くなく、その年代による変化は限定的である。
〔右より 20.9cm、24.8cm(昭和15年)(西田記念館)〕 西田コレクション
〔右より 12.1cm、15.2cm、20.9cm、20.9cm、14.8cm(昭和15年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔右より 23.2cm(昭和17年)(石井政喜)、30.5cm(昭和15年頃)(国府田恵一)、18.0cm(昭和14年頃)(田村弘一)、21.2cm(昭和14年頃)(国府田恵一)〕
〔系統〕蔵王高湯系緑屋
〔参考〕
- 鈴木康郎:「談話会覚書(30)〈こけし手帖・679〉(平成29年8月)
- 第442夜:斎藤源七のこけし: こけし千夜一夜物語
- 第655夜:斎藤源七(2): こけし千夜一夜物語
- 斎藤源七 : こけしのなかのわたし – livedoor Blog