鈴木安太郎

鈴木安太郎(すずきやすたろう:1895~1976)

系統:山形系

師匠:鈴木米太郎

弟子:鈴木晃悦

〔人物〕明治28年4月26日、鈴木米太郎長男として、寒河江市下西小路に生まる。祖父彦兵衛までは大工の棟梁であった。父米太郎は山形の小林倉治について木地を学んだ人。安太郎は明治40年ころから父米太郎について木地を習得、市の立つときは露店を出して父と共に木地製品を売ったり、楯岡や左沢などに行商して売りさばいていた。
大正4年山形歩兵連隊に入隊、同5年除隊、この時から父米太郎は家業を一切安太郎にまかせて木地から離れた。安太郎は家業をついで木地玩具、薄荷入れ、小林倉治の四男吉太郎の注文による撚糸関係の木地製品等を作った。しかし木地玩具はセルロイド製の玩具に押されてほとんど売れなかったので、こけしも殆ど作らなかった。昭和2年に長男晃悦が誕生した。
昭和11年ころに米太郎のこけしを思い出して少し作ったようであるが、昭和12年に川口貫一郎氏のすすめにでようやく本格的に作るようになった。昭和14年、〈こけしと作者〉で紹介され、昭和18年ころまで盛んにこけしを作った。昭和19年から29年までは、棺、葬礼道具、建具、家具等が専門で、こけしは作っていない。
昭和30年山形の蒐集家しばたはじめの勧めでこけし製作を復活した。その後家具一切は長男晃悦にまかせ、晩年はほとんどこけし専門に作っていた。
昭和40年ころから長男晃悦もこけしを作るようになった。昭和51年10月20日没、行年82歳。

鈴木安太郎

鈴木安太郎

鈴木安太郎

〔作品〕 米太郎が盛んにこけしを作った明治末年には、父のこけしを手本に練習したこともあるらしいが、そのころのものは残っていない。
昭和11年11月に復活した最初の作は、〈図譜「こけし這子」の世界〉図版116~7に掲載された2本であるが、下掲写真の国府田恵一蔵も天江富弥から橘文策に渡ったものでおそらく同じときの作であろう。


〔 37.0cm (昭和11年)(国府田恵一)〕天江富弥より橘文策に譲られたもの

その次に依頼したのは川口貫一郎で昭和12年である。下掲写真の右端は昭和13年6月に川口貫一郎から橘文策に贈られたもので、おそらく昭和12年に川口が安太郎に依頼したときのものであろう。
左端も右のものとあまり時期に隔たりのないものであろう。胴下に見える柵のような模様は、作並の古い菊籬模様の名残で、胴の梅花のように見える模様も原型は菊花であった。


〔右より25.0cm(昭和12年)(国府田恵一)、11.2cm(昭和13年頃)(鈴木康郎)〕

戦前の作は比較的少ないが〈こけしと作者〉や〈美と系譜〉で紹介されたもののように、目鼻が太く力強い。胴の花ぼってりとにじんでいて古拙な雅趣がある。下掲左端は鈴木鼓堂旧蔵品で昭和14年頃の作、中央も同時期で、頭角ばり量感のあるフォルムになっている。


〔右より 18.2cm(河野武寛)、32.0cm(国府田恵一)、31.5cm(鈴木康郎)(昭和14年頃)〕

戦後は昭和30年からであるが、復活初期の作は戦前後期のものと同趣の味を持つ。頭部いくぶん丸くなり、表情もやや優しくなっている。その後、この傾向が強くなり、表情に甘さを加え、目の彎曲も強くなった。下掲右端は戦後の復活から間もない時期の作である。


〔右より 15.2cm(昭和33年10月)、26.8cm(昭和41年5月)(田村弘一)〕

昭和40年代に入ると一時さらに繊細さが増し、花の数が多く、枝を描き加えたのや、ロクロ線の赤色が目だつもの等を作っていた。下掲写真はさらに晩年の作で筆力は衰えたが、花は再び大きくなり、その数も多くはない。最晩年まで昔ながらの味わいは残していた。


〔 15.8cm(昭和43年)(橋本正明)〕

系統〕山形系

〔参考〕

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