北原鉄造(きたはらてつぞう:1905~1981)
系統:鳴子系
師匠:河村辰治
弟子:
〔人物〕 明治38年10月3日、北原春治・スエヨの長男として、秋田県由利郡本荘町裏尾崎町に生まる。大正9年高等小学校卒業後、同じ裏尾崎町町内の河村辰治について木地挽きを習得する。大正13年徴兵検査のため弟子上がりし西小路の鈴木木工所の職人となった。ここでは主に生花の花器作りを行ったという。
大正15年には河村方に戻り、辰治の跡を継いだ清太郎とともに工場を守り辰治型のこけしも作った。戦前の川口貫一郎主宰の東京こけし会機関紙〈こけし・5〉(昭和15年1月)で紹介され、自作のこけし3本を手にする写真が掲載された。
昭和40年に病を得て河村方を退職したが同47年には回復、清太郎没後の工場を借りてこけしを挽いた。昭和50年2月に町内の慰安旅行の旅先で脳内出血により倒れ、その後は療養に努めたが昭和56年12月13日心不全により没した。行年77歳。
左:北原鉄造 右:河村清太郎 昭和30年4月 撮影:大浦泰英
〔作品〕 残されている作品は必ずしも多くは無い。大正期の作品は、確認されていない。河村清太郎が工場で働いていた時期は、ほとんど描彩はしなかったであろう。昭和12年8月に清太郎が出征し、このとき以降に頼まれて製作描彩したものが残る作品の殆どである。河村清太郎自体が昭和11年に稲垣武雄によって偶然こけし作者として見いだされ、〈こけし展望・2〉で紹介されたが、この冊子が発行された昭和13年4月には、清太郎は既に出征して工場を離れていた。清太郎が昭和14年12月に帰還するまで、注文には北原鉄造が対応せざるを得なかったのである。
河村清太郎と北原鉄造の作品は、非常に良く似るが、鉄造の方が前髪の先端が細かく、毛先の数が多く描かれている。
〈こけし辞典〉で中屋惣舜は、「一文字のように描き流した長い眉が特徴である」と言っているが、下段の写真の鉄造には確かにその傾向が見られる。
〔右より 12.6cm(昭和14年)(北村育夫)、13.0cm(昭和14年)(池上明)、12.5cm(昭和14年)(石井政喜)、16.3cm(昭和14年9月)(北村育夫)〕
〔右より 31.0cm(昭和14年)(鈴木康郎)、29.7cm(昭和14年)(石井政喜)〕
昭和15年以降は多く作らなかったが、戦後昭和35年頃に復活して少量づつ製作をつづけ、病気療養の休業期間をはさんで昭和50年頃まで製作していた。下段の昭和49年頃の作は最晩年であるが、形態描彩ともに崩れていない。
〔右より 21.5cm、15.7cm(昭和49年9月)(橋本正明)〕
〔系統〕 鳴子系外鳴子 木地の系列は直蔵系列