木村吉太郎

木村吉太郎(きむらきちたろう:1896~1972)

系統:蔵王高湯系

師匠:荒井金七

弟子:木村祐助

〔人物〕明治29年10月7日、茅葺職人木村春吉、さつの三男として、山形県南村山郡上ノ山町御井戸町に生まれた。たまたま荒井金七の家が春吉の家の前にあった縁で、明治45年3月、17歳のときに荒井金七に弟子入りし、大正6年、22歳まで木地を修業した。このころの木取り帖によると、三福神、太鼓笛、鉄砲、独楽、福助、あひる、八百屋篭などの玩具類から、碁石入れなどの実用品を作っていた。こけしも相当数製作し、夜仕事が終わってから面描を卵殻で練習したという。その後、半年間のお礼奉行を終えて家に帰り、一年近く農業の手伝いをおこなった後、大正7年23歳のとき上ノ山の十日町で独立、木地屋を開業した。こけしの注文は年々ふえていったという。ただ量が出たのはこけしよりテーブルの脚や腰掛の脚などだったという。
妻女むらえとの間に11人の子供が生まれたが、幼くして亡くなるものがおおく、長男勇助(祐助)と弟の勇吉の二人のみが成人した。
昭和3年〈こけし這子の話〉でこけし写真とともに紹介され、〈日本郷土玩具・東の部〉でも写真紹介されたから、こけし蒐集活動の早い時期から知られていた工人の一人である。昭和4年には「東北玩具普及会」としてしばたはじめにより吉太郎のこけし頒布が行われ、昭和7年には〈 木形子研究・4〉で橘文策により頒布が行われた。吉太郎は終始上ノ山を出ることなく、一貫して木地業を続け、注文があればこけしも作っていた。ただ戦後昭和22年に橘文策が再訪したときには、息子の祐助と木地を挽いていたが、こけし以外の注文が多く、こけしを作る暇はないといった状況だったという〈こけしざんまい〉。


木村吉太郎 昭和18年 撮影:田中純一郎

晩年は眼も悪くなり腕も震えるようになったが、昭和41年5月に脳溢血で倒れるまでロクロに向かっていた。下掲写真は昭和40年8月であるが、ロクロに嵌めたこけしの胴をなめるように顔を近づけて挽いていた。昭和47年11月10日上ノ山にて没した。行年77歳。


木村吉太郎 昭和40年 

〔作品〕吉太郎は終始上ノ山で木地を挽き続け、他の工人との接触や影響は少なかったため、作風の変化はあまりない。年代鑑別の難しい工人である。
〈こけし辞典〉で中屋惣舜は年代鑑別の特徴点として胴の上部の牡丹の蕾の描き方をあげ、極度に左に曲げられているものが古い、年代が新しくなるほど曲がりは少ないとした。
また〈木の花・24〉では頭頂部の描法を鑑別点として、「古いものほど手絡は頭頂から放射線状に描かれて遠刈田風の手絡に近いのに対し、それが時代を追って前方に偏っていく。また古いものでは後頭部に髷が一筆で描かれているが、それが三筆で描かれるようになる。さらに昭和10年代後半になるとその髷が蛇の目に変わる。」と指摘している。
下掲写真のこけしは〈こけし這子の話〉に掲載されたもの。胴の牡丹模様はすこぶる雄渾である。
〈こけし這子の話〉の解説は昭和2年の12月には書き上げられているのでそれ以前の作であることは間違いない。おそらく大正末期の作であろう。


〔28.5cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション 

下掲2本は関西の古い蒐集家よりでたもの、右端の背面には大正15年のシールが貼ってある。下掲の作と上掲の〈こけし這子の話〉掲載時期の作といづれが古いかについては議論がある。


〔右より 15.0cm(大正15年)(北村育夫)、20.3cm(大正15年)(田村弘一)〕

下掲左端は〈こけし這子の話〉の天江旧蔵品からあまりくだらない時期のもの、右端重ね菊は上掲の2本に比べると筆勢鋭く表情も枯淡となって、完成度は高くなっている。


〔 右より 20.0cm(昭和7年)、23.6cm(正末昭初)(中屋惣舜旧蔵)〕

吉太郎は作り付け小寸でも童心あふれる愛すべき作品を多く作った。


〔右より 7.5cm(昭和10年頃)(北村育夫)、5.1cm、11.0cm(昭和10年頃)(鈴木康郎)、9.1cm(昭和7年)(石井政喜)〕


〔右より 18.4cm、25.4cm(昭和13年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲は戦後の作品、特に左端は晩年脳溢血で倒れるすぐ前の作品で、このように腕が震えるようになっても店頭で木地を挽き、こけしを作っていた。


〔右より 15.5cm(昭和30年頃)、19.6cm(昭和40年8月)(橋本正明)〕

〔伝統〕蔵王高湯系能登屋
吉太郎の型は息子の祐助、孫の吉一が継承した。

〔参考〕

  • こけしの会同人:連載覚書木村吉太郎〈木の花・24〉(昭和55年3月)
  • 鈴木康郎:談話会覚書(19)荒井金七と木村吉太郎のこけし〈こけし手帖・644〉(平成26年9月)
  • しばたはじめ描彩のこけし
    下掲の作風の一連のこけしが吉太郎の極初期のものとして文献に掲載されたことがある。
    昭和53年に神奈川県立博物館の「こけし古名品展」にも昭和初期の吉太郎として下掲のこけしが出陳された。〈木の花・24〉でも同種のこけしが吉太郎古作として議論されている。
    しかしこれらの作品は小林清蔵木地、しばたはじめ描彩であることがほぼ定説となっている。柴田頒布の阿部常吉の中にも同様にしばたはじめ描彩のものがあるという〈童宝舎コレクション図集こけし綴り〉。頒布への申し込みに対して不足分が出た時には、出身地山形の木地に、間に合わせで描彩したのかもしれない。


〔 21.2cm(昭和4年)(柴田せい)〕木地:小林清蔵 描彩:しばたはじめ

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