後藤熊太郎(ごとうくまたろう:1893~1954)
系統:山形系
師匠:遊佐幸太郎
弟子:
〔人物〕明治26年2月、宮城県名取郡秋保村長袋に生まる。農業後藤深右衛門、とじの長男。学校卒業後農業に従事、その後、長袋にあった秋保村立職工学校に入り木地を修業した。この時期の木地の講師は鳴子の遊佐孝太郎であったと思われる。その後、川崎村砂金、作並、宮城村大倉などに行って木地を挽いた。
大正6年、長袋の猪又源蔵の三女いせと結婚、はつよ、きえ子、ふみ、てい子の四女をもうけた。長女はつよに佐藤倉吉の長男松衛を婿養子としてむかえた。
昭和3、4年に仙台に移り、高岡幸三郎の福々商会の職人となった。昭和14年、桜井玩具店より、こけしを頒布したが、これがおそらく今日残る熊太郎のこけしの最初で最後の作品であろう。
秋保に帰ってから農事のかたわら、村の世話役として活動し区長にもなった。
昭和29年4月2日午後8時、宮城郡広瀬村上愛子仲大道23の地点で没した。行年62歳。
総代として大雲寺の集まりより帰る途上、深酔していて道に迷い、ため池に落ち溺死したらしい。1週間行方不明として大騒ぎとなり、村人総出で山捜しをしてようやく見つけたという。
性明朗でよく人を笑わせたといわれる。妻のいせは昭和29年5月長袋で死亡した。
長女はつよと婿の松衛一家が跡を継いだが、農業で生計を立て木地は挽かなかった。
〔作品〕鹿間時夫は〈こけし辞典〉に「細胴に比較的大きなやや角張った頭、段のついた肩等の全形は典型的な作並系であるが、胴模様は高岡幸三郎の影響で、二段の旭菊を大きく描いている。肩は赤と緑がよく効き、泥具く情味に富む。比較的珍しいこけしで、作並系の性質を知るうえで重要な存在である。」と書いた。おそらく秋保村立職工学校のあと作並でも働いたことから今野新四郎や太田庄吉との関係を推定して作並系としたと思われるが、こけし伝承の経緯については明確ではない。
ただ下掲の4寸を見ると、形態は肩を持つ鳴子に近く、胴模様にしても鳴子の様式と見ても違和感はない。むしろ秋保村立職工学校時代の遊佐幸太郎や、福々商会で働いていた鳴子の工人の影響が強かったかもしれない。
下掲が後藤熊太郎として残るもっとも一般的なこけしである。
〔伝統〕 仙台一般型(鳴子系の影響がある)
〔参考〕