高橋寅蔵

高橋寅蔵(たかはしとらぞう:1878~1956)

系統:鳴子系

師匠:高橋万五郎/鈴木庸吉

弟子:

〔人物〕 明治11年5月14日宮城県玉造郡西大崎村下の目の農業氏家助三郎・とみの三男に生まれる。明治36年3月14日鳴子の高橋万五郎の養女千賀代(万五郎の妹のしの娘)の入婿となり、高橋姓に変わった。日露戦争に従軍。木地は養家で覚えたが、こけしは正式な伝承というより、近所の岡崎仁三郎や、万五郎の家で働いていた鈴木庸吉、小松留三郎等のものを見て覚えたともいう。明治41年高橋万五郎が鳴子の仕事場をたたんで岩手県鉛温泉へ弟子とともに移ったので、寅蔵もこのころ鉛に移り、また一時志戸平の佐々木の作業場で仕事をしたこともあったらしい。明治43年には新鉛で店を出して営業したが、明治44年には招かれて台温泉に移った。台時代には小松五平が寅蔵の職人をしていたことがある。大正8年頃鳴子に戻り木地も挽いたが、大正10年養父万五郎が亡くなったので、木地を廃業し、蕎麦屋を始めた。現在の登良家旅館前身である。
その後長くこけしは作らなかったが、昭和15年渡辺鴻の依頼でこけし製作を一時再開し、また鹿間時夫など蒐集家の依頼でたまに製作することもあった。作品数は少ない。
昭和31年8月8日没、行年79歳。〈羨こけし〉の編者注や〈こけし辞典〉では没年を昭和36年としているが、これらは昭和31年の誤り。

高橋寅蔵 昭和15年

高橋寅蔵 昭和15年

高橋寅蔵 (水谷泰永撮影)

高橋寅蔵 (水谷泰永撮影)

〔作品〕 大正10年廃業前のこけしが1本残っている。この1本は博文館編集者のかたわら古美術研究家でもあった料治熊太が所蔵していたもの、それを渡辺鴻が譲り受けた。〈古計志加々美〉に原色版で掲載されたものである。このこけしが高橋寅蔵の大正期のものであることは、渡辺鴻自身が確認した。昭和15年に鳴子に持参したこのこけしを見て寅蔵は「自分の二十年くらい前のものに間違いない」と語っている。

〔22.1cm(大正中期)(名和好子旧蔵)〕
〔22.1cm(大正中期)(料治熊太/渡辺鴻/名和好子旧蔵)〕⇒ 〈古計志加々美〉当時の保存

その後、このこけしは土橋慶三の手を経て名和コレクションに収まった。鹿間時夫は「かぶら型大頭に前髪と鬢きわめて大きく、三白眼の情味ある顔で、古鳴子の傑作である〈こけし辞典〉」と書いた。

昭和15年以降製作したこけしも、目じりがつりあがった緊張感のある表情で、決して甘い表情ではなく、古鳴子を彷彿とさせるこけしだった。

〔右より 17.5cm、18.6cm(昭和15年頃)(名和好子旧蔵)〕
〔右より 17.5cm、18.6cm(昭和15年頃)(名和好子旧蔵)〕

こうした一連の寅蔵のこけしを見ると決していい加減な見取りでこけしを学んだのではないことが分かる。例えば、胴模様の描法をみると、菱菊の下に多数の茎の縦線を描き、点状の葉を添えている。これは小松五平と全く共通である。また目じりの上がったきつい表情も、古い五平と通じる描法である。五平は明治40年万五郎の家で寅蔵とともに働いたことがあり、大正元年には台温泉で寅蔵の職人をしたこともある。また、大正になって遅く弟子入りした岸正男も同様の菊の茎を描いた。おそらくこうした万五郎家で働いた工人たちのこけしは、万五郎の家の型をかなり忠実に継承しているだろう。その型はあるいは万五郎の父の金太郎(明治39年没)からの伝承であるかもしれない。
作品数は必ずしも多くはないが、金太郎系列のこけしを研究するうえではきわめて重要な作者である。

〔伝統〕 鳴子系金太郎系列

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