小林栄蔵

小林栄蔵(こばやしえいぞう:1907~1998)

系統:山形系

師匠:小林倉吉/小林清蔵

弟子:小林孝太郎

〔人物〕明治40年1月20日、山形市旅籠町も木地業小林倉吉五男として山形市旅籠町に生まる。長兄は清蔵。明治44年の山形北の大火によって焼け出され、一家は揃って六日町の新築西通りに移った。大正9年高等小学校に在学中から父倉吉についてロクロを習得。このころは薄荷入れを専門に作った。大正10年に薄荷入れのボイコットが半年ぐらいあり、こけしや玩具をこのときから作り始めた。〈こけしガイド〉によると栄蔵はこけしの作り方については父倉吉より兄清蔵に師事したほうが多いとしており、清蔵が本格的にこけしを作りだした正木昭初には栄蔵もかなり多数作った。昭和2年には修学期間も終わり、完全に一人前となった。その後長く清蔵工場の職人をし、昭和14年には〈こけしと作者〉で紹介された。昭和17年分家して清蔵工場の隣に独立し、こけし玩具等を製作した。
戦後も長らく足踏みロクロで営業していたが、製作したのは新型が多かった。昭和30年以降は長男孝太郎の木地に描彩だけすることが多くなった。昭和38年山形市鈴川に孝太郎と共に居を移し、旧型専門に作っていた。
平成10年12月25日没、行年92歳。

小林栄蔵夫妻


小林栄蔵 昭和46年 撮影:武田利一

〔作品〕昭和10年ころまでの作は兄清蔵と異なり、面描太く豪放で力強く、たれ鼻が多い。また頭頂に描かれる墨の線は勢いよく、ツンケまでつきぬける点が特徴である。胴模様は他の兄弟や叔父よりも粗く、簡素化されている。〈こけしの追求〉によると栄蔵の胴模様は菊とのこと。

下掲は大正末期とされる初期栄蔵の代表的な作例。右端は〈美と系譜〉に掲載された米浪庄弌旧蔵のもの。10代後半の作と思われるが、栄蔵の強い個性の表れた快作である。


〔右より 20.2cm、21.1cm(大正末期)(鈴木康郎)〕 右端は米浪庄弌旧蔵

左端は24歳、昭和5年の作、表情のはっきりした若々しい作である。右端は昭和13年頃の作、初期のものに比して面相が細くなり幾分おとなしい面描となっている。


〔右より 18.6cm(昭和13年頃)、24.6cm(昭和5年)(鈴木康郎)〕

下掲のこけしは、昭和15年頃の作品。〈古計志加々美〉や〈こけしの美〉で紹介されたものも昭和13~15年頃のものが多い。

〔16.7cm(昭和15年頃)(深沢コレクション)〕
〔16.7cm(昭和15年頃)(深沢コレクション)〕

戦後もこけしの製作を続けたが、面描は細筆でおとなしい表情となった。


〈11.8cm(昭和20年代)(橋本正明)〕

昭和30年代になると、木地も長男孝太郎の挽いたものが多くなった。


〔23.6cm(昭和35年頃)(高井佐寿)〕

下掲は明治型と称した白胴の細身の作。面描は弱いが山形の古風な作風は再現できている。


〔15.8cm(昭和37年頃)(橋本正明)〕

系統〕山形系

〔参考〕

  • 柴田長吉郎:山形系の工人 小林栄蔵〈こけし手帖・161〉(昭和49年8月)
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