小林吉三郎(こばやしきちさぶろう:1887~1971)
系統:山形系
師匠:小林倉治
弟子:小林清次郎/長岡幸吉
〔人物〕 明治20年11月25日、山形市旅籠町木地業小林倉治の七男として生まれる。小学時代よりロクロには親しんでいたが、明治33年14歳のとき兄吉太郎が兵役について家を離れたため、そのロクロで父倉治について正式に修業を始めた。玩具、こけしを盛んに作った。丁度この明治33年は山形旅籠町に勧工場(今のモール型の商業施設)が出来た年で、玩具、こけしといった小物類が盛んに売れたのである。明治43年、山形市小姓町の長岡孫一の娘きよと結婚したが、翌44年には山形の大火がおこり、小林家は焼け出された。そこで大正元年に新築西通りに移った。大正5年に妻きよとともに薬師町に家を構え、新築西通りの作業場に通ったが、大正7年鍛冶町の佐藤小次郎(小林倉吉の弟子)の家を借りて移り、独立開業した。次男清次郎はこの鍛冶町の家で育った。この年に妻きよの甥にあたる長岡幸吉を弟子に迎えている。主な木地製品は輸出用の薄荷入れ、雑器等で、鍛冶町ではこけしはほとんど作っていない。昭和5年円応寺新道に移った。こけし再開は深沢要の勧めによるというから、昭和15年頃であろう。昭和15年訪問の深沢要に吉三郎は次のように語っている。
「ここへ来て十一年になるが、人形はもう何十年とやらない、木管のようなものばかりを作っている。人形もおらが子供の時にはよほど売れた。座敷一ぱいにひろげて、面相は必ず親爺が描いたものだ。米沢へ出す時なんか丁度今時分のことだが、五、六人で持って行ったものだ。又お祭りには箱に入れて商いに出たものだ。独楽は正月から三月頃までのものだが、人形は期間がない〈こけしの追求〉。」
この頃から、蒐集界に知られるようになり、〈鴻〉などで紹介された。
戦後は山形市の商工課に勧められて、長男市郎、次男清次郎とともに観光土産品のこけしを盛んに作った時期もあった。昭和32年頃までは自挽きのこけしを作っていたが、以後清次郎や職人の木地に描彩のみ行うようになった。描彩は極めて几帳面で、机の上に整然と木地を並べ一本一本丁寧に描いていた。昭和46年10月5日没、行年85歳。
〔作品〕 明治期のもの、すなわち大量にこけしを作ったといわれる勧工場時代のこけしは残念ながら残っていない。現存するものは深沢要訪問の昭和15年以後のものである。
昭和15年頃の作は〈山形のこけし〉や〈古計志加々美〉等があり、〈古計志加々美〉では「その明眸には近代的な匂いが濃く感ぜられる」と評されていた。
戦後は、昭和30年代後半から明治型と称して、ロクロ線を入れないものを多く作ったが、その胴は細く古風で、作並から伝承した本来の形態を偲ばせるものだった。昭和41年頃には蒐集家から依頼されて倉吉型も製作したが無難な出来であった。
兄の吉太郎や吉兵衛ぼど個性の強いこけしではなかったが、キッチリとした破綻のないこけしを長く作り続けた。
昭和32年頃から木地は清次郎や職人が挽いて、吉三郎は専ら描彩のみであったが、その描彩自体は最晩年に至るまでほとんど衰えていなかった。
〔右より 20.6cm(昭和18年)(寺方徹旧蔵)、17.0cm(昭和17年6月)(鹿間時夫旧蔵)〕
〔右より 20.0cm(昭和39年)、23.1cm(昭和40年8月)右の二本は明治型
21.0cm(昭和41年)倉吉型、16,4cm(昭和44年5月)戦前の本人型(橋本正明)〕
〔伝統〕 山形系(作並系) 吉三郎型は次男清次郎、孫清、敏子、清次郎の弟子阿部正義が継承した。