小林吉兵衛

小林吉兵衛(こばやしきちべえ:1876~1956)

系統:山形系

師匠:小林倉治

弟子:

〔人物〕明治9年7月26日、山形県山形市八日町小林倉治、シュンの三男に生まれた。倉吉は長兄、吉太郎、吉治、吉三郎は弟である。吉兵衛は三島通庸初代県令が師範学校とともに開設した南山学校に学んで卒業、明治20年ころから約2年間丁稚奉公として新聞の植字係をした。その後倉治の下で木地も修業を始めた。
倉治のもとでこけしも作ったが、吉田慶治「木地業余話」〈こけし手帖・36〉の小林吉三郎談によると「吉兵衛のこけしの頭はいつも瓜ざね顔になるので、父の倉治から叱られていた。しかも鼻を中央に描くので、顎がますます広くなってしまった。」とある。
明治36年、山形市八日町の秋葉大兵衛長女ナカと結婚し、同37年に旅籠町に分家した。独立開業後5、6年して材木町に移り、ここで亡くなるまで過ごした。
〈こけしの追求〉によると、米沢市川井小路の米屋平次と取引があり、こけしを平次方に納めていたという。
〈聞書 木地屋の生活〉によれば大正6年の米沢大火のときは荒井金七の頼みで一時米沢で働いたこともある。この間、流行の薄荷入れ専門に変わり、以後相当の期間こけしは作らなかった。
昭和12、3年ころから少量ずつこけしも作るようになって、昭和15年には深沢要の来訪があった。昭和16年ころからは小姓町の長岡幸吉の所に通いこけしを作っていたが、戦後は全然作らなかった。昭和31年8月11日老衰で没した。行年71歳。

小林吉兵衛 昭和31年7月 亡くなる1ヶ月前に小野洸撮影
小林吉兵衛 昭和31年7月 亡くなる1ヶ月前に小野洸撮影

〔作品〕吉兵衛のこけしとして残されているものは、概ね昭和12年頃から昭和18年頃の作品である。小林兄弟の中では面描がやや異色で、両目と同じ高さのほぼ中央に鼻が描かれることが多い。そのため頭部の中央に目鼻が集まるのでちまちました表情と評されることもある。
一方で平行する上下瞼の曲線は、微妙に湾曲して古拙かつ古雅なまなざしを作り、甘さに堕さず品格を保った表情のこけしとなっている。
弟吉太郎の張りのある表情に魅せられる人は多いが、吉兵衛の表情の枯愁漂う情趣を評価できる人は意外に少ない。

〔12.7cm(昭和15年)(深沢コレクション)〕
〔12.7cm(昭和15年)(深沢コレクション)〕


〔19.1cm(昭和16年)(久松保夫旧蔵)〕


〔18.8cm(昭和16年)(西田記念館)〕 西田コレクション

初めのころは、胴も細いものが多かったが、時代が下がると太くなっていく傾向があった。


〔33.0cm(昭和16年頃)(高井佐寿)〕

なお、吉兵衛のこけしの中で、胴が太く、細かいロクロ線を入れたものには長岡幸吉が挽いた木地のものもあるという。

系統〕山形系
甥の小林清次郎が吉兵衛の型を作った。同様に清次郎の長男清も吉兵衛型を作る。

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