小林倉吉(こばやしくらきち:1871~1949)
系統:山形系
師匠:小林倉治
弟子:平賀謙蔵/小林清蔵/小林栄蔵/武田仁兵衛/高崎栄太郎/日下源三郎
〔人物〕明治4年4月1日、木地業小林倉治、しゅんの長男として山形市旅籠町に生まれる。母のしゅんは旧姓森谷で北村山郡沼沢村の出身。倉吉は南山学校で学んだ後、明治15年から二年間米沢の酒屋で丁稚奉公をした。明治17年に米沢から帰ってから正式に父倉治について木地の修業を行なった。
明治18、9年倉吉15、6歳の頃には既にこけしを製作していたという。父倉治に従って、八日町、十日町、六日町と転住し、旅籠町に新宅を買って営業した。この頃倉治の弟子となっていた鈴木米太郎等と共に父の下で働いた。旅籠町時代はこけしや玩具等を一番多く作った時期で、弟の吉兵衛、吉太郎、吉次、吉三郎等と共にかなり大量に作ったという。製品は古くは北国屋という玩具商に卸したり初市に出したりして商った。
明治24年、阿部常松がきて一人挽きロクロを伝え、これにより玩具、こけし等の小物類は数倍の能率が上がるようになった。
明治33年に七日町に勧工場が開設され、ここに小林家も店を持った。この勧工場は、この地で開業していた野村呉服店が誘致したもので、旅籠町交差点と七日町交差点の中間あたりから南の済世館側に抜けるように設けられていたという。ここに店を持つのを機に、父倉治は隠居となり、家業は倉吉が取り仕切るようになった。勧工場は呉服・小間物・雑貨・おもちゃを扱う店が多く軒を並べてとても賑わっていたという。日露戦争の後に山形に俘虜収容所ができたが、ロシアの俘虜兵たちの行動は比較的自由であったようで、この勧工場を眺めて歩くのを楽しんだという記録もある。
倉吉の代になって、明治34年に作並の平賀謙蔵を弟子とし、その後奥山吉蔵、佐藤千代治、長男清蔵、中野常治(明治29年山形市鉄砲町生)、佐藤小治郎、神尾長八、武田仁兵衛、高崎栄太郎、斎藤金一、日下源三郎、丹野辰彦、小林藤吉・太郎兄弟、五男栄蔵の15人の弟子を養成した。
明治38年から薄荷入れの需要がたかまり、その生産が主体となった。製品は吉野屋に多く卸した。また同年大車口クロを設置し、大物はこれで挽くようになった。
旅籠町勧工場の店は明治明治44年まで続くが、5月8日に近隣のそば屋から出火した山形北の大火で焼失した。そのため六日町の通称新築西通に移った。父の倉治は大火のころまでこけしの描彩は続けていたが、新築西通に移って大正7年12月23日に他界した。
新築西通に移ってからは、大火後の復興需要への対応や薄荷入れの生産が中心となった。
当時の薄荷は、日本の北海道北見産が世界の生産のかなりの部分を占めていて、国際的な相場商品でもあり、そのための薄荷入れの需要も加熱した。しかし一方で薄荷市場では相場操作等の事件も起き、大正10年には薄荷入れボイコット作戦も始まったので、小林家ではこのころから再び玩具やこけしの生産にシフトするようになった。
大正10年刊行の全国特産品製造家便覧(下巻)には家具指物の製造人として紹介された。
倉吉がこけし作者として〈こけし這子の話〉や〈日本郷土玩具・東の部〉で紹介されてからは、こけしや玩具の比重も大きくなった。その後も倉吉はこけしを少量ずつ作っていたが、昭和12年ころからは息子の木地に描彩だけするようになった。昭和15年から孫誠太郎もこけしを始め、倉吉に描彩を習っている。
戦後は全く作らず、ただ黙々と書き物をして余生を送った。倉吉は非常に厳格、几帳面な人で書き物をするのが唯一の趣味だったという。倉吉自筆の「小林家記録書」は山形木地業の一級資料である。昭和24年5月10日没、行年79歳。
〔作品〕倉吉と清蔵の鑑別の決め手は、〈こけし研究ノート・3〉でかなり整理されている。ほとんどの場合にはに清蔵は割れ鼻の上がくっつき、倉吉は離れている。
一方で〈こけし手帖・121〉で柴田長吉朗は下掲図版のように胴上部の花弁右側の描法で鑑別できるとした。ただ両鑑別は矛盾する場合もあり、いづれも絶対的な判断基準かどうかはわからない。
天江富弥により〈こけし這子の話〉で3本の山形のこけしが小林倉吉作として紹介されたが、いずれも割れ鼻の上がくっついているので、その3本は清蔵の作であろうされた。しかし花弁の描法では右2本は倉吉の描法であり、やはり倉吉とする見方もある。
下掲は同じ天江富弥の収集品であるが、割れ鼻の上端の離れていて、花弁の描法も倉吉の描法であるから、倉吉の作であろう。昭和5年にしばたはじめが頒布したものもこれに近い。
〔 34.8cm(昭和5年)(高橋五郎)〕 天江コレクション
下掲の深沢収集品も上掲とほぼ同様の時期の倉吉である。
〔34.8cm(昭和5年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
下掲3本は割れ鼻の上がくっついているが、特に右端および左端は胴花弁の描法が倉吉であり、倉吉作とする見方が有力である。
〔右より 25.5cm(正末昭初)、14.6cm(昭和初期)、16.8cm(昭和10年頃)(鈴木康郎)〕
昭和12年頃までは自挽きの木地もあったが、以後描彩のみとなり、その描彩は次第に精密細緻となった、花を小さく胴正面に数多く描くようになる(上掲肖像写真の左に立つこけし参照)。花弁を胴裏にまで描いたものもあった。
昭和15年頃から署名を「木翁」とするようになった。この時期の製作数はかなり多かった。
〔系統〕山形系
山形本来のものは作並からの移入であり、白の直胴に花弁を描いたものであった。阿部常松が土湯から、青根、蔵王高湯を経て山形の倉治に一人挽きを伝え、その折にロクロ線の描法や、型のアーチ上のよだれかけ模様、くびれの形態などの影響を残していった。それが作並系から山形系が独立する契機となった。
〔参考〕