小林清次郎(こばやしせいじろう:1918~2015)
系統:山形系
師匠:小林吉三郎
弟子:小林清/阿部正義/小林敏子
〔人物〕 大正7年7月14日小林吉三郎二男として山形市旅籠町の小林倉治一族の家で生まれた。生後間もなく吉三郎一家は鍛冶町にあった佐藤小治郎(小林倉吉の弟子)の家を借りて独立したので、清次郎は鍛冶町の家で成長した。昭和5年吉三郎とともに一家で円応寺町に移った。昭和8年3月高等学校卒業後、吉三郎について木地を修業玩具の車やヨーヨー等を盛んに挽いた。米沢機業が盛んになると、米沢の叔父吉太郎から機業関係の製品の注文があり、その生産も行った。こけしも少量作ることがあった。昭和11年鶴見の東京芝浦製作所に入所、木型部で勤務した。肘折の鈴木征一の父慶次郎も同時期にこの東京芝浦製作所で働いていた。山形から来た近藤政光に技術を教えた。昭和13年徴兵検査甲種合格、弘前第8師団に入営、支那華北を転戦、終戦とともに円応寺の自宅に戻った。
戦後は父吉三郎、兄の市郎とともに木地業に従事、木地玩具や土産物のこけしを盛んに製作した。妻女はつえとの間に、長女敏子、長男清が生まれた。昭和29年安孫子正義(後の阿部正義)が弟子入りした。昭和46年父吉三郎が没したが、昭和51年には長男清が木地修業を始めた。昭和52年には弟子安孫子正義が独立して清次郎のもとを離れた。昭和54年円応寺町より、檜町に工場と住居を移転し、その後この工場で清とともに木地業を続けた。長女の敏子も一時期こけしを製作を行った。
平成27年3月11日没、行年98歳。
〔作品〕 初期のもの、また戦後作り始めた土産物のこけし(山形市商工会の勧めによる)は正面菊を二段に描き、繊細な面描で、ニスを塗ったものもあり、伝統こけしとして見るべきものはほとんどないと言ってよいであろう。昭和30年代後半から小林一家の吉兵衛、吉太郎の古作の研究を始め、村山東昌蔵(昭和35年)、吉田慶二蔵(昭和36年)、川上克剛蔵(昭和37年)の復元を試みた。特に昭和39年に川上克剛のすすめによる6寸5分の吉太郎型は古作現品を目の前にしての復元であったため、吉太郎に肉薄するような迫真の出来となり蒐集界に衝撃を与えた。〈こけし美と系譜〉では当時の現役工人としては珍しく3本もの吉太郎復元作を掲載している。また鹿間時夫は〈こけし鑑賞〉で「吉三郎二男である彼は中堅工人、吉太郎の情味に肉迫するような気力にみちたのを物し、蒐集界を驚かせた。山形出身の川上克剛君の熱心な努力によるものであろうが、清次郎自体の自己批判とセンスがなければ、この傑作は生まれるものではない。」と書いた。
清次郎はこのあと倉吉型、吉兵衛型や鈴木米太郎型、作並古作型など数々の復元を行ったが、一旦こけしのなんたるかを悟った清次郎の手にかかるとその全てが見事な作品となった。
また、この清次郎の数々の復元成功と蒐集界からの反応に刺激を受けて、多くの若手山形系工人が古作の研究と復元を開始し、それぞれ一定水準以上の成功を収めていった。山形系全体のレベルを大きく向上させる契機となった清次郎の功績も評価されるべきであろう。
〔右より 20.3cm(昭和41年9月)、18.8cm(昭和40年)小野洸蔵復元(橋本正明)〕吉兵衛型
〔右より 21.5cm(昭和44年)、19.2cm(昭和41年8月)、17.5cm(昭和44年7月)、
18.3cm(昭和45年)(橋本正明)〕吉太郎型
〔右より 34.8cm、24.3cm (昭和52年)(橋本正明)〕 吉太郎型
〔40.1cm(昭和54年)(橋本正明)〕 吉太郎型 こけしの会「名作とその写し展」
〔伝統〕 山形系 小林倉治-吉三郎-清次郎と続く系譜。