梅津春雄(うめづはるお:1926~2005)
系統:山形系
師匠:小林吉太郎
弟子:梅津春一
〔人物〕 大正15年5月23日、米沢市木挽町の農業梅津市太郎の長男に生まれる。高等小学校を卒業した昭和14年14歳で米沢市信濃町の米沢航空分工場に就職、配属された木工部でその教官小林吉太郎に木地を習った。
昭和18年に師匠の吉太郎が入院し、胃がんで亡くなったが、梅津春雄と兄弟弟子の藁科茂は、その最後まで付き添って世話を下という。
昭和19年に海軍通信学校に入り終戦を迎えた。終戦後は、米沢産業、市内の南原林南雲の挽物工場などで職人として働いた。昭和24年、米沢市信夫町の吉川車大工の工場を借りて独立したが、翌25年には桐町の早川撚糸工場に移った。ここでは主に新型や棒こけしの木地を挽いた。昭和26年に長男春一が誕生。昭和29年に座頭町に移り、この地で長く木地業を続けた。昭和45年に高校を卒業した春一が春雄に就いて木地の修業を始めた。平成17年10月22日没、行年80歳。
〔作品〕 小林吉太郎からこけし描彩の手ほどきを受けているかどうかははっきりしない。春雄が入門した信濃町時代の吉太郎は既にこけしの木地を殆ど挽かず、また描彩も堀実、黒田うめの、坂部政治らが描いていた。
梅津春雄がこけし作者として注目を集めたのは〈こけし 美と系譜〉図版32に掲載されたこけしからである。表情異様に張りのある快作であったが、実はこのこけしには蒐集家の上描きの形跡があり、春雄の眞作ではないというのが今日の評定となっている。
昭和40年ころから、蒐集家に勧められてこけしを作り始めたが、昭和44年頃に吉太郎型の復元をするようになってその様式は固まってきた。復元初期のものは、細身の白胴に花模様を配し、稚拙味ある表情の佳品であった。
〔右より 18.2cm、19.7cm(昭和44年)(橋本正明)〕 吉太郎型2種
昭和50年代になるとやや胴のバランスも太めになり、なで肩で表情も整い、おとなしい作風に変わっていく。
〔系統〕 作並系山形亜系(山形系)