高崎栄太郎

高崎栄太郎(たかさきえいたろう:1897~)

系統:山形系

師匠:小林倉吉

弟子:

〔人物〕 明治33年1月30日、高崎栄吉の長男として山形に生れた。米沢で木地業を営んでいた高崎栄一郎は弟である。父の栄吉は山形歩町の傘屋の元祖であったが、後に服屋となった。
栄太郎は家業の服屋を継ぐのがいやで大正2年、13才で、山形市新築西通の小林倉吉に弟子入りした。当時の小林家の弟子は朝5時から夜の9時までが就業時間と決まっており、さらに寝る前の9時から10時までの1時間は勉強をさせられた。弟子達はこのように厳しい労働条件の中で修業させられた。 栄太郎は16、7才の時に、一度あまりの辛さに東京に逃げ出したことがあった。この時は、東京の浅草で、当時大正館を建てていた戸田組に入って仕事をしたが、山形に比べるとまったく楽な仕事であった。結局三ヶ月程で、山形の親類の工藤傘屋のおかみに見つかり、父からこんこんと説教された。
その後順調に働き、21才で年期があけ、そのまま大正11年3月の22才まで、お礼奉公をした。
家で独立して働くつもりであったが、栄太郎は修業中前述の通りニヶ月間逃げ出しているので年期あけに与えられる事となっていたロクロ、鉋棒、平鉋、金槌、芹、錐、鋸、キシャゲ一式や、お礼奉公の後に与えられる紋付羽織、紋付袷、特等々一切貰えなかった。
その為、同地を去る決心をして、まず蔵王高湯に登った。緑屋の斎藤源吉の所で、その年の6月まで働いた。当時緑屋には橋本力蔵が働いていた。
雪の消えるのを待って、刈田岳を越えて、青根から七ケ宿、飯坂から高玉鉱山に入り、汽車賃を作って米沢に向かった。
米沢では、すでに小林吉太郎や弟の栄一郎が働いており、そこで、上杉神社の鳥居等を挽いて、11月まで滞在した。
大正11年11月の末に米沢を離れ、倉吉の所で栄太郎の弟弟子だった斉藤金一が川口に出ていたので金一をたよって、東京に出た。南千住の挽物屋に行ったが、そこでことわられ、浅草の人夫出しの紹介で石工となった。やがて親方に抜擢されて大林組等で働いた。
昭和9年に川崎に移り、13年に結婚した。戦争が近くなリ工作隊の隊長として上ノ山、山辺を始め東北を回り、米沢で終戦を迎えた。
戦後は川崎に落着いて土木関係の仕事に従事し、晩年は神奈川県庁労働課に勤め失業対策事業の職を務めた。
没年は不明である。


高崎栄太郎夫妻 昭和44年 箕輪新一撮影

〔作品〕確認される作品は残っていない。
 

〔伝統〕山形系

 

〔参考〕

  • 箕輪新一:「高崎栄太郎の聞書き」〈こけし手帖・102〉(昭和44年9月)
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