高崎栄一郎(たかさきえいいちろう:1904~1997)
系統:山形系
師匠:小林吉太郎
弟子:高崎美和子
〔人物〕 明治37年9月25日、山形市歩町の呉服商 高崎栄吉の三男に生まれる。高崎栄太郎は兄。父栄吉と木地業小林吉太郎とは無二の親友であった。その縁で、大正5年山形第三小学校卒業後、栄一郎は小橋町の小林吉太郎に入門した。兄弟弟子に栗山一太郎、斎藤虎蔵がいた。大正6年5月22日に米沢で大火があり、その復興需要に応えるため吉太郎に連れられて、斎藤虎蔵と共に米沢に移った。
復興需要も落ち着いた大正8年ころから、一年半ほど山形県釜淵の八敷台に吉太郎、長岡金蔵、鈴木一郎、大宮安次郎等と出稼ぎに行ったが、その時以外は米沢を離れず、大正13年の年期明けまで修業を続けた。
年期明け後は山形の実家にもどり兄栄太郎と共に商売をはじめたが、程なく山形市七日町の製椀会社に勤めるようになり、機業関係の木地製品やこけし木地等を挽いた。大正14年より山形市吉野屋渡辺庄三郎方で職人として働き、薄荷入れ専門に作ったが、その間こけしは全く作らなかった。昭和8年まで吉野屋におり、その後米沢のひろえ屋で木管を挽いた。昭和16年ころから山形県南共同組合を設立、やがて米沢製作所と改名、軍需品の木地製品を作った。戦後、米沢産業株式会社に入り、鐘紡の注文を受けて木管等を挽いた。
昭和24年より米沢市信濃町で独立、新型や旧型の木地を挽いた。
昭和52年に山形こけし会会長のしばたはじめが亡くなった後、栄一郎が二代目会長となった。
平成9年9月30日没、行年94歳。
〔作品〕戦前作は残っていない。戦後は栄一郎名儀のこけしが多く市場に出たが、描彩はほとんど長男祐一の妻美和子であった。
様式は山形小林家の基本形を継承しているが、女性描彩らしい甘い表情のこけしであった。
〔伝統〕山形系
〔参考〕