斎藤松助

斎藤松助(さいとうまつすけ:1902~1976)

系統:蔵王高湯系

師匠:斎藤松治

弟子:斎藤昭/斎藤健男

〔人物〕  明治35年10月11日、斎藤松治、フクの二男として蔵王高温温泉に生まる。小学校在学当時よりロクロに親しみ、大正2年蔵王第三尋常小学校卒業後正式に父松治につき木地修業、こけしを盛んに作った。兄弟弟子に斎藤源吉石沢角四郎等がいた。
当時母フクは下げ売りと称して、旅館を一軒一軒回って、こけしや木地物等を売りさばいていた。
大正6年16歳の時、県の木地講習会が蔵王高湯で開催され、我妻勝之助、斎藤松治、斎藤源吉、岡崎栄作、岡崎長次郎、そして斉藤松助がこれに参加した。講師は小田原の人だったという。大正11年現役兵として入隊、独立守備隊として満州に渡った。同14年5月帰郷、木地を続けた。
昭和2年長男昭が誕生した。昭和3年27歳のとき、東京に出て斎藤源吉の従兄弟がやっていた斉藤ボルト店の手伝い等を約4年間行なった。この間、昭和4年に二男健男が生まれた。その後、山形市内で3年ほど働き、蔵王高湯に戻った。蔵王では斎藤源吉の手伝いなどをした。昭和12年9月支那事変のため再び応召、北支と中支に派遣された。昭和15年3月除隊した。その後も木地を続けたが、この年の秋から父松治も木地を復活、こけしを盛んに作った。昭和17年8月より旅館招仙閣経営のため休業した。また戦争末期には軍属として木更津に行って働いた。終戦後はもっぱら招仙閣の経営に当たったので昭和40年まで木地は一切やらなかった。昭和40年秋以降こけしの製作を再開したが、作品数は限られている。  このころ二男健男に木地の技術を教えた。また長男昭も招仙閣の経営の傍ら、こけしを製作するようになった。
昭和51年12月13日没、行年75歳。

斎藤松助

〔作品〕 戦前のこけしは昭和11年前後と昭和15、6年の限られた時期に作られたものである。昭和11年ころのものには描彩に張りがあり、また上瞼を二重に描く特別の手法のものもあった。昭和15年、川口貫一郎主宰の〈こけし〉誌で松助の名前が掲載されたので一部の会員の手にはある程度の作品が渡ったという。


〔 右より 30.5cm(昭和11年)、24.0cm(昭和16年ころ)(中屋惣舜旧蔵)〕


〔 30.3cm(昭和15年ころ)(高橋五郎)〕

戦後の復活作は筆致が硬く、精彩をやや欠いた作風であった。しかし作品数は少なく、生前から入手困難なこけしだった。

 
〔右より 33.3cm(昭和40年頃)、30.3cm(昭和42年頃)(高井佐寿)〕


〔 18.3cm (昭和44年)(橋本正明)〕

〔伝統〕 蔵王高湯系三春屋

〔参考〕

  • 柴田長吉郎:斎藤松助の生涯〈こけし手帖・193〉(昭和52年5月)

 

[`evernote` not found]