坂下権太郎(さかしたごんたろう:1879~1940)
系統:南部系
師匠:松田清次郎
弟子:坂下隆蔵
〔人物〕 明治12年12月2日、岩手県下閉伊郡宮古の坂下茂兵衛・ヒデの二男に生まれる。明治26年15才の頃、盛岡に出て松田清次郎について木地の修業を行った。煤孫茂吉は兄弟子にあたる。年季明けする前に事情があり、宮古に戻った。明治36年大久保富太郎の長女トヨと結婚。隆蔵、マツ、千代子、節子、コヨ、賢一、賢二、ヨシ、キヨ子、ヒロ、鐡郎など多くの子を得た。大正6年2月に宮古町第三地割黒田に分家独立した。
こけしは一般挽き物とともに製作し、宮古の朝市などに並べて売っていたという。
こけし研究家の深沢要が、深沢省三、菊地長右衛門らの協力を得て、宮古にこけしの存在することを突きとめて、権太郎のこけしを〈こけしの微笑〉(昭和13年8月)巻頭の口絵で紹介した。 このあと、花巻の長寿庵、仙台の桜井玩具店などから比較的多く売りだされた。
昭和15年12月31日午後9時に宮古で没した、行年62歳。
坂下権太郎 (〈こけし・人・風土〉水谷泰永撮影)
〔作品〕 発見最初の作は、鳴子の日本こけし館所蔵深沢コレクション中にある。〈こけしの微笑〉口絵で紹介されたのは下の写真の右側である。深沢要は同書に、「描彩は以前、同地の中沢判輔に依頼したのであるが、現在は一定していない」と書いている。
また、赤い前垂れを描くこの意匠については、権太郎が宮古の浄土ヶ浜に祀られている地蔵に信心篤かったので、これに似たキナキナを作り描彩したからだという〈こけし手帖・124〉。
〈こけし辞典〉ではこの深沢蒐集手の右のものを権太郎A型と称し、権太郎の木地に中沢判輔が描彩したものとしているが確証はない。一方、深沢コレクション中には左側の無彩のものもあり、無彩のままでキナキナボウジとして売られたものもあったかも知れない。
〔右より 14.6cm(昭和12年) 〈こけしの微笑〉口絵掲載、14.6cm(昭和12年)無彩(深沢コレクション)〕
下に示す作は橘文策旧蔵のもの、昭和13年7月の記入がある。〈こけしの微笑〉発刊前であり、おそらく深沢要からの情報により橘文策が注文したものであろう。〈こけし辞典〉ではこの手を権太郎C型と称している。
下の写真、米浪庄弌旧蔵には鉛筆で山田猷人描彩と鉛筆の書き入れがある。こけし愛好家の山田猷人が宮古の坂下権太郎木地に描彩したことは知られているが、どれが本当に山田猷人の手になるものかはっきりしていない。〈こけし辞典〉ではこれに近い久松保夫蔵を掲載して権太郎B型と称し、山田猷人描彩は全く別の型のこけしを掲げている。
〔14.9cm(昭和16年)(鈴木康郎)〕 米浪庄弌旧蔵 山田猷人描彩の書き入れあり
下の写真、目黒一三蔵は胴背に坂下権太郎の署名がある。ただし描彩は顔料を用いており、いわゆる長男隆蔵作の宮古こけしと同列の作である。昭和13年以降、長寿庵や桜井玩具店で権太郎作として売られていたこけしには、かなりの隆蔵作が混入していたであろう。
〔15.5cm (昭和15年)(目黒一三)〕 胴背に坂下権太郎の署名あり 描彩は隆蔵か。
いずれにしても坂下権太郎作というこけしには、確固とした描彩者がいたのか、あるいは注文を受けたときに近くにいた描彩のできる人が入れかわり描いたものかはっきりしない。
もともとは松田清次郎の弟子であるから、無彩のキナキナが権太郎の本来の型であっただろう。
ただ、最初に権太郎作として世に出た作品は、赤の涎かけを配したシンプルな描彩で、訴える力の強いものであった。こけしとしては単純かつ完成度の高い優れた型であったので、これが宮古こけしの定型となった。
〔系統〕 南部系。 権太郎-隆蔵ー隆男とこの型は継承されている。