佐久間米吉

佐久間米吉(さくまよねきち:1886~1952)

系統:土湯系

師匠:佐久間浅之助

弟子:佐久間常雄

〔人物〕明治19年12月12日、福島県信夫郡土湯村字下ノ町28の湊屋佐久間浅之助、ノエの六男として生まれる。長兄は由吉、以下粂松、常松、源六、七郎と続く兄が居て、弟に虎吉がいた。
明治35年、17歳から父浅之助について木地を修業。しかし明治36年の土湯大水害で湊屋は経済的に大きな損失をこうむり、一家は土湯を離れることとなった。米吉は明治38年、20歳のとき川俣へ転じ、その後福島市荒町に移った。明治39年11月、兄の常松は北海道開拓民として一家で北海道に渡った。しかし常松は大正5年に北海道で亡くなったので、常松の妻ミノは子の常雄達を連れて戻った。大正6年12月米吉はミノと結婚して常雄の継父となった。大正13年6月に早稲町、昭和14年7月に置賜町に移転、この年の秋から蒐集家の依頼でこけし製作を再開した。〈鴻〉により作者として知られたが、作品の写真紹介は〈古計志加々美〉が初出である。
昭和20年4月に福島市栄町に移転し、主として木管類の製作に従事した。また綿の打ち直しの注文なども取っていたようである。
土湯の温泉旅館富士屋の出身で、戦後福島市の山下町で洋服仕立業を営んだ蒐集家佐久間貞義によれば、「米吉は兄弟一のお人好しで人からなにか頼まれると嫌と言えない性格だった。そのため死ぬまで苦労ばかりしていた。」という。
昭和27年7月2日福島市栄町で没、行年67歳。

佐久間米吉 撮影:水谷泰永

〔作品〕 土湯時代にはこけしも製作し、〈こけしの追求〉によれば「兄弟はみなデコを挽いたが、顔は主に父が描いた。私も稽古中はデコの顔を描いた。由吉、粂松兄は今でこそデコの顔を描いているがそのころは描かなかった。」という。現存するこけしは昭和14年7月、置賜町へ移ってからの作品のみで、それ以前のこけしは未確認である。〈古計志加々美〉では、「昭和15年ころまでは 製作を休んでいた。」としてこけしの復活をそれ以後としているが、〈こけしの追求〉で深沢要がいう昭和14年秋、すなわち置賜町へ移ってすぐ後からとみるほうが正しいと思われる。
〈こけしの美〉64図、〈美と系譜〉68図再掲の米吉こけしは昭和14年作。昭和14~15年頃の作品が最も米吉こけしの真面目を現わしている。一重の蛇の目、三筆で描く鬢、筆太の眉、目は下瞼の長い浅之助ゆずりの二筆描く、表情やや婀娜っぽく、晩期の浮世絵の風情がある。米吉はかなり忠実に父浅之助の筆法、筆致、情味を継承していて、その艶ややかな情感からは土湯こけしの醍醐味を十分堪能することが出来る。
米吉の木地は黒っぽいものが多く使われた。残る作品の量は多くはない。


[ 21.5cm (昭和14年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション


〔右より 19.5cm、24.5cm(昭和14年)(中屋惣舜旧蔵)〕


〔 18.2cm(昭和15年)(西田記念館)〕 西田コレクション

下掲は昭和16年11月作、この頃になると面描の筆線が細くなり、それまでの婀娜な艶というよりは枯淡で諦観漂う表情となる。昭和17年以降になるとさらに印象の弱い作となった。


〔 24.0cm(昭和16年11月)(橋本正明)〕

 〔伝統〕土湯系湊屋系列 米吉の作風は義子佐久間常雄が継承した。また土湯の渡辺定巳、渡辺忠雄が米吉型を復元した。

〔参考〕

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