佐久間虎吉(さくまとらきち:1891~1963)
系統:土湯系
師匠:佐久間浅之助
弟子:佐久間虎吉(二代目)
〔人物〕 明治24年1月1日福島県信夫郡土湯村下ノ町18の佐久間浅之助、ノエの七男に生まれる。由吉、粂松(戸籍表記 久米松)、常松、源六、七郎、米吉は兄にあたる。姉もフジ、キチ、ハナの3人が居り、虎吉は10人兄弟の末子だった。小学校時代から漢籍に親しみ、明治34年11歳で土湯尋常小学校を卒業したときは学力1等賞であった。明治37年より、父浅之助、兄七郎について木地を修業した。
湊屋は土湯で由緒ある古い木地屋であったが、父浅之助は明治23年の水害で大きな被害を受け、その損失を取り戻すために木材業を始めたが、今度は明治36年の大洪水で大量に買い付けた木材をすべて流出させてしまった。松屋善治郎、西屋濱吉の支援を受けたが、ついに再興かなわず、一家は土湯を離れることになった。
明治38年11月4日(一説には19日)、菅野徳次の世話により岩代川俣に落ち着くことになる。そのとき虎吉は15歳、小学校時代に愛読した漢籍数冊を文庫箱に入れて背負い、父浅之助に手を引かれて、朝からそぼ降る雪の中を川俣へと下っていったという。折りしも沿道では日露戦争の戦勝提灯行列が行われており、その中での親子のひっそりとした川俣下りであったらしい。このとき背負った文庫箱は、浅之助が7歳で寺子屋に入るとき、浅之助の父弥七が手作りで与えた文庫箱であった。
しかし、川俣に着いてから「兄たちはよそで働いているから、お前だけが跡取りだ。木地屋にはもう漢籍はいらない。」と浅之助に言われ、その後本を読むことが出来なくなったが、それは辛いことだったと虎吉は述懐していた。
川俣では一足先に来ていた兄の七郎と合流し、3人で木地を挽いたが失意の浅之助は馬に蹴られたのがもとで明治39年4月28日に亡くなった。七郎も浪江に移ったので、虎吉は16歳より独立して川俣の木地業を背負うこととなった。製品は主に川俣絹糸のための機業用の木管類であった。
こけしは土湯時代に作ったというが、川俣では木管類が主で、玩具は殆ど作らなかった。
〈土湯きでこ考〉にはこけしのブームも始まった「昭和13年頃から復活製作を始めた」と書かれているが、残る大部分の作品は昭和15年以降のものである。昭和15年夏には深沢要の訪問があった。
作者として名前が出たのは川口貫一郎主宰の〈こけし・13〉(昭和16年3月)の産地瞥見が最初で、「由吉の十人目の弟でまだ51歳だから、今後作品はたくさん世に出るだろう。」として紹介された。また写真紹介は〈古計志加々美〉(昭和17年)が最初で、解説には一昨年から復活した由書かれているから、昭和15年が本格的なこけし製作の再開であろう。
戦後も継続してこけし製作を続けた。昭和34年からは長男の義雄もこけしの製作を始めた。
昭和38年6月16日没、行年73歳(〈こけし辞典〉に行年76歳とあるのは誤り)。
〔作品〕 佐藤泰平稿〈土湯木でこ考〉によると「こけし製作の最初は昭和13年頃であり、深沢氏が昭和15年夏に訪ねてきた頃は既にこけしを出していたといっている。」とある。
しかし、実際に昭和13年作と言われるこけしを確定できない。
らっここれくしょんの数本の虎吉はすべて昭和15年であり、年齢を記入してあるこけしも50歳(数え年として昭和15年)が最初である。
下に示す写真は、深沢コレクションにある虎吉作8寸5分、木地の形態は虎吉の三角胴とは異なり、米吉か、粂松に近い。従来から米吉との合作ではないかと言われてきた。虎吉がこけしを挽いてくれるかどうか分らなかった深沢要が、昭和15年夏、面描だけでも頼もうと福島で米吉に木地を挽かせて、それを川俣に持参したのかもしれない。
このこけしの製作経緯は定かではないが、この頃が虎吉の復活最初であって、本格的なこけし製作は昭和15年からではないかと思われる。
〔25.8cm(昭和15年)(深沢コレクション)〕 木地は米吉か?
下図のこけしには胴底に「五十才」の記入があって昭和15年の作である。
胴のロクロ線はかなり細かい。
〔37.6cm(昭和15年)(谷川茂)〕 米浪庄弌旧蔵
胴底に「五十才」の記入有
「新道のセナ(兄)は正直者で、あの人(粂松)の作るきでこは本当の元の姿かも知れない。〈こけしの追求〉」と虎吉は深沢要に語っていた。下図は地蔵型ながら、左端の作の表情は極めて粂松に似る。
〔右より 15.5cm、15.5cm(昭和16年)(箕輪新一)〕
胴底に「五十一才」の記入有
ロクロ模様だけではなく上掲左端のようにあやめなどを描き加える場合もあった。また下掲のようにロクロ線は胴の上下のみでほとんど加えず、ちらし花模様を描いたこともあった。
従来は、胴のろくろ線が太く雄渾なこけしが古いはずだとして、〈こけし辞典〉では横山五郎蔵を作り始めの昭和13年の作と紹介しているが、ロクロ線の雄渾さは下図の鈴木蔵も同じであり、制作年代の決め手にはならないだろう。
昭和15年夏から昭和16年はじめにかけての作品が、虎吉の真骨頂を十分に発揮した作品といえる。三角胴の緊張感のある姿も美しい。
「おらの親父あたりは模様も主につうつうと筋を描いていた。」と虎吉は語っていたが、この時期の虎吉は「つうつう」という気分を忠実に継承してこけしを作っていた。
〔 32.5cm(昭和16年)(鈴木康郎)〕
胴底に「昭和16年2月17日」の記入有。
昭和16年後半になると、ロクロ線に黒を用いたり、あやめ模様などを胴の主たる模様として用いたこけしも作るようになった。胴の形状もややずんぐりして三角胴ではなくなる。
〔右より 15.5cm(谷川茂)、25.5cm、23.1cm(鈴木康郎)、12.4cm(石井政喜)(いずれも昭和16年の作)〕 いずれにも胴底に「佐久間虎吉/岩代川俣」のゴム印が押してある。
戦後になると、胴は怪しく膨れて、下部に菊模様を加え、目じりが垂れ、口は赤だけで描く甘い作風に変わってしまった。美術出版社〈こけしガイド〉(昭和33年)に写真の載ったこけしが低迷期の作例である。
昭和35年福島こけし会が戦前の三角胴のこけしの復元を依頼したのが一つの契機となり、また下図に示すように、橋元四郎平が昭和36年に昭和15年作を虎吉に預けて10本ほどの復元作を依頼したのが、大きな節目となって、虎吉のこけしは再び本来の力を取り戻した。
〔右より 22.8cm(昭和15年)、22.8cm(昭和36年)(橋元四郎平旧蔵)〕
左は右のこけしの戦後の復元
虎吉は、「本当のきでこはさっとしたものだ。おれも若い時には手伝ったのだから、おしゃれなものは出来ないが作ることは作る。」と深沢要に語っていた。
14歳のときに土湯を離れているから、土湯の濃密な情感にはやや欠けるが、さすがに湊屋の兄弟であり、正調の切れの良い作風を堅持していた。
〔系統〕 土湯系湊屋系列