佐々木金次郎

佐々木金次郎(ささききんじろう:1892~1962)

系統:津軽系

師匠:佐々木金助

弟子:佐々木金一郎/長谷川辰雄/田中三正/田畑茂直/新山久一

〔人物〕 明治25年10月10日、佐々木金助長男として青森県板留字宮下に生まれる。明治34年、4年制小学校を卒業後、雑貨屋の手伝いをしていた。明治37年より山形村黒森の寺子屋で勉学を続けた。明治40年16歳で父金助につき木地修業、冬は木地を挽き、夏は農業をした。柄杓、杓文字等の雑器類とズグリ等の玩具類を作った。森田丈三の「こけし雑記」〈こけし手帖・22〉によると、佐々本金次郎は「板留時代にこけしを挽き、父金助は菊やあやめの模様を描いた」という聞き書きが紹介されているが、長男金一郎の証言によると全然作らなかったという(但し金一郎は大正7年生まれであるから、それ以前のことに関しては詳しい知識はないであろう)。大正10年ころには金次郎の弟の辰雄も短期間金次郎につき木地挽きを習ったことがある。大正13年より大鰐町の木工株式会社(社長嶋津彦作作)に職人として勤め、山谷権三郎、嶋津彦三郎、長谷川辰雄等と一家を大鰐町蔵館に呼びよせ独立開業した。昭和2年より田中三正が、昭和4年には田畑茂直が、昭和7年には新山久一が、昭和8年には長男金一郎がそれぞれ弟子入りした。橘文策の〈木形子研究〉(昭和8年)で蒐集界に紹介された。以後は盛んにこけしの木地を挽き、長谷川辰雄がこれに描彩をした。また昭和7年頃、斎藤幸兵衛が米相場で失敗して、金次郎のところで一年半ほど職人をしたことがある。昭和10年大鰐字前田に移り、同12年より二男清が、同24年には佐藤誠治が弟子入りした。戦時は軍需品を主に作った。
戦争が終わると再びこけしを挽くようになった。昭和23年以降は末娘の邸子の描彩が多い。二男清は仕事が早く大変腕も良く、金次郎自慢の息子であったが、昭和36年に39歳で鉄道事故により亡くなった。金次郎はその翌年、昭和37年3月28日に没した、行年71歳であった。

佐々木金次郎夫妻 撮影:水谷泰永

上掲写真は〈こけし・人・風土〉口絵で、間宮明太郎夫妻とされて紹介されたが、森田丈三が金次郎に確認して金次郎夫妻の写真と判明した〈こけし悠々〉。金次郎は板留時代の写真と言っていたようだが、撮影者水谷泰永のこけし収集開始が昭和10年であるから、これは大鰐町蔵館に移ってからの写真と思われる。
写真の右手に二本の金次郎作と一本の幸兵衛あるいは盛秀太郎らしいこけしが写っている。幸兵衛であれば昭和7~8年に金次郎方で働いていたときの作であろう。

佐々木金次郎

〔作品〕 金次郎は全く描彩はしないが、金次郎名儀のこけしはかなり古くから知られていた。それらは金次郎の木地に長谷川辰雄が描彩したものであった。下掲の3本もそうした作で左端は昭和7年に金次郎名義で橘文策の木形子洞より頒布されたものである。形態は鳴子の形に似ているが、構造は胴から頭への嵌込み(鳴子と反対に頭に穴をあける)になっている。特に右端の形態や胴模様は、鳴子の様式を思わせる。大鰐を訪れた鳴子の木地師、秋山耕作や大沼岩蔵の影響もある様に思われる。 


〔右より 22.5cm(大正末期)、24.0cm(昭和初期)、21.0cm(昭和7年)木形子洞頒布(矢内謙次旧蔵)〕

下掲の4本も昭和7年に金次郎名義で橘文策の木形子洞より頒布されたもので、描彩は長谷川辰雄である。


〔木形子洞頒布の金次郎 昭和7年 一金会 描彩は長谷川辰雄〕

下掲写真は戦後の作例、描彩は佐々木邸子(小堀邸子)である。


〔21.2cm(昭和35年頃)(高井佐寿)〕 描彩:佐々木邸子

〔伝統〕津軽系温湯亜系
佐々木一家は、もともと温湯の1km程奥の板留に居たが、後に大鰐に移住した。系統としては温湯亜系に分類される。

 

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